からっ風と、繭の郷の子守唄 第31話~35話
辻ママが、空になったままテーブルに置かれている岡本のグラスへ、
また酒を注ぎ足す。
さらに俊彦を振り返る。『それを空けて、もう一杯いかが?」と目で促す。
俊彦が、半分残っていた酒を一息に流し込む。
『年寄りをとことん酔わせて、ママは、いったいどうするつもりだ?」
とグラスを差し出す。
「若いうちなら急いで家へ帰り、エッチをするという選択肢もありました。
この歳になればもうそんな気はありません。
一杯や二杯、余計に飲んだところで別にどうこうないでしょう。
うっふふ」
グラスを手にした岡本が、喉の乾きを潤すように少しだけ酒に口につける。
「酒も酔っ払うまでは口当たりが良い。
だが、美味いはずの酒が、どこかでふいに苦くなる。
俺たちは、人様から褒められるような仕事をしているわけじゃねぇ。
飲みすぎた酒みたいに、苦さを噛みしめながら生きている。
悔しい思いを我慢している時もある。
世の中のことをろくに理解してねぇ若いお巡りは権力を傘に、
好き放題を言う。
この野郎と思っても、反論することはできねぇ。
俺たちは、すねに傷を持っている後ろめたい身分だ。
いちいち反発するわけにもいかねぇし、事を荒立てるわけにもいかねぇ。
だが我慢にも限度がある。
言いたい放題を言われて、俺もいい加減、お巡り連中に腹をたてはじめた。
ちょうど、そんな時だった。
通り雨のせいで、ひと時、みんなが軒下へ避難した。
いきなり降ってきたもんで、あっというまに背広はびしょ濡れだ。
災難のひとつだなと空を見上げていたら、後からハンカチと
傘を差し出す女がいた。
『悔しいだろうが馬鹿なお巡りの挑発にのるんじゃないよ、我慢しな』
そう言ながら俺に、傘とハンカチを手渡す物好きな女がいた。
それがこの、辻のママだ。
そしてそれがその夜の、一度目の出会いだった」
(36)へつづく
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第31話~35話 作家名:落合順平