少なくとも、彼の場合
晴菜が出て行ってから一か月後、晴敏は、ジム通いを辞め、会社と家を往復するだけの空虚な日々を送っていた。それと時を同じくして世間は馨の世界戦を目前にして俄かに活気づき、マスコミも連日連夜、毀誉褒貶の報道合戦を展開した。晴敏は、美咲先生の計らいで、近日両国国技館で開かれる世界戦のチケットを手に入れていたが、とても足を運べるような気分にはなれなかった。晴敏は己が馨に対して行ってきた非礼の数々を愧じてはいたが、まだ彼を娘のパートナーとして認めることができないでいた。その彼に対して、また例の如く、あの信子おばさんが、厭味たらしい言葉を浴びせてきた。
「晴菜ちゃんの彼氏、で良かったかしら? すっかり有名人になっちゃったわね。あれで男なら文句はないのにねえ」
テレビの報道などを見る限り、世間の馨に対する印象は概ね好意的だと言えたが、世の中にはまだ、この信子おばさんのように偏見を抱く者が少なくからずおり、ネットの掲示板では、「キチガイ」、「オナベ」、「男女」、「キモイ」などの罵詈雑言が踊っていたのである。
晴敏は、自分が以前までそちら側の人間であったということに苛立ちを感じ始め、そのせめてもの報いとして、少しずつではあるが、自分なりにGID(性同一性障害)のことを理解したいと思うようになっていた。その矢先に出会った信子おばさんは、最早、敵以外の何者でもなかった。
信子おばさんを適当にやり過ごし、都内の図書館へと向かった晴敏は、その道すがら、荒川の土手でロードワークに勤しむ馨を目撃した。その勇ましい姿はどこからどう見ても男性のそれであった。
その数日後、両国国技館において、馨の世界戦が開催された。客席は国技館始まって以来の観客動員数に達し、その中には、晴敏や晴菜の姿もあった。晴敏、晴菜の親子はそれぞれ一階席、二階席に分かれて座り、試合を観戦した。
馨の相手は、ヒット&アウェイ戦法を得意とするタイ人の選手で、接近戦を得意とする馨にとっては聊か手強い相手だった。初回ラウンドから5ラウンドにかけて、相手側はほとんど手数を出さずに逃げ回り、一方の馨も決定打を与えられないままに6ラウンド目を迎えた。そして、6ラウンド目、業を煮やした馨が、相手側に猛打を浴びせ始めたが、相手側は、その悉くに巧みにカウンターを浴びせて、馨の体力を徐々に削って行った。長期戦に持ち込み、相手の気力と体力を奪ってじり貧に持ち込むのが、相手側の戦略であるようだった。馨は、その罠に見事に嵌まり、7ラウンド、8ラウンド目を迎える頃には、すっかり体力と精神を擦り減らしていた。そこに目を付けた相手側が反撃に転じたのは9ラウンド目である。相手側は、逃げ回るだけのスタイルから踊るような軸足移動に転じ、馨の顔や胸や腹に強烈なラッシュを浴びせた。その一つが馨の顎を捉えた時、勝負は決した。馨は膝をついてその場に倒れ、二度と動かなかった。客席で失笑と溜息と罵声が一つに溶け合った。
「女が良い恰好してボクシングなんかするから、こんな目に遭うんだよ」
晴敏の隣に座っていた初老の男性がそう言ったのと同時に、前方から晴菜の声が上がった。
「馨君!」
立ち上がり、リングの方へ向かおうとする晴菜を警備員が一斉に取り押さえた。馨は、大勢の客が見守る中、担架に載せられ、そのまま病院へと運ばれた。
馨が小康を取り戻したのは、それから一日が経過してからだった。晴敏は、ジムの関係者から病院の場所を聞きつけて、馨の病室へと駆けつけた。そこには晴菜がいた。
「よく頑張ったな」
「ありがとうございます」
馨はベッドの上に上半身を起こして晴敏に頭を下げようとした。晴菜が、「まだ安静にしてなきゃいけないんだから」とその身体を優しく押し戻した。その手はしっかりと馨の手を握り締めていた。
「生活の方は? うまくやってるのか?」
晴敏の問いに晴菜はぎこちなく答えた。
「うん、何とかね」
「そうか」
それだけ言って晴敏は病室を去ろうとした。
その背中に晴菜が声を掛けた。
「お父さん」
晴敏はゆっくりと晴菜に向き直った。
「今までごめんね」
「勘違いするな」
晴敏は馨と晴菜を真っ直ぐに見つめて言った。
「俺はお前たちのことを認めたわけじゃない。今はあくまで他人だ。今後二度とうちの敷居を跨がないと約束するなら、お前たちの好きにしたらいい」
晴菜の目から涙が零れた。その華奢で痩せこけた手を握り締めながら、馨は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとう、お父さん」
その後、病院から自宅へと戻った晴敏を待っていたのは、信子おばさんの不快極まりないお喋りだった。
「あの人、負けちゃったわね。やっぱりと思ったのよ。だって、元々女じゃない? 男なんかに適うわけがないのよ。色々言われないうちに別れさせた方がいいんじゃない?」
晴敏は、信子おばさんを睨み付けた。
「私も以前までは奥さんと同じ考えでした。ですが、これからは、時間がかかるかもしれませんが、私なりに彼のことを受け入れて、自慢の息子だと思えるように努力してみるつもりです。ですから、私たちのことはもう放っておいてくれませんか?」
閉口する信子おばさんを余所に、晴敏は、自宅へと向かった。その時、肩に一片の花が舞い落ちた。見上げたその先で花をつけた桜が幾重にも枝を拡げ、春風に煽られるまま頼りなく揺れていた。
完
作品名:少なくとも、彼の場合 作家名:サルバドール