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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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少なくとも、彼の場合

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「晴菜さんと結婚したいと考えています」

 馨の告白は、世間体が服を着ているような晴敏がはいそうですかとすんなり受け入れるには聊か衝撃的に過ぎた。

「と、とりあえず、お前ら、落ち着こう。な?ケーキでも食べてさ」
「お父さんが落ち着いてくださいよ」

 妻の藍子が透かさず突っ込みを入れても、晴敏は動揺を隠し切れず、気を落ち着かせるためか目の前のショートケーキを貪るように食い始めたが、顔がクリームだらけになってオバケのⓆ太郎みたいになった。ちょうどその時、彼の横でスマホを弄り、コンパで知り合った女とLINEに興じていた長男の晴彦が、「姉ちゃん、マジパネエ! 人類愛じゃん」と思いっきりチャラい言い方で茶化した。

「喧しい、お前は黙ってろ!」
「うるせえ、ジジイ!」

それを端緒として二人の大喧嘩が始まり、周囲は水を打ったように静まり返った。

「こんな病気の奴と一緒になったって、幸せになれるはずがないじゃないか!」
「親父、本当に姉ちゃんの為だと思って言ってんの?」
「何が言いたい?」
「親父さあ、何かと言うと、俺たちの為だとかいうけど、結局、世間体、気にしてるだけじゃん。自分が可愛いだけなんだよ」
「親に向かって何だ、その口の利き方は?」
「もう止めてよ!」

その時、滅多に感情的にならない晴菜が珍しく声を荒げ、晴敏と晴彦の双方を睨みつけた。

「病気じゃないよ。馨君は、お父さんなんかより、ずっとずっと男らしいもん」

晴菜は、「行こう」と言って馨を促し、動揺する晴敏に向かって更に続けた。

「お父さんは自分の正しいと思ったこと以外、信用しない。そういうとこ、昔から嫌だった」

そう言って部屋を飛び出していく晴菜と馨を、晴敏は唯、呆然と見つめるしかなかった。

「晴菜!」
「放っておけ」

 妻・藍子を力なく制した晴敏は、そのまま倒れ込むようにしてソファに身体を預けた。

 そのまま晴菜は家に戻らなかった。彼女がそんな風に晴敏に反抗を試みたのは初めてのことであった。娘こそは唯一の理解者だと信じて疑わなかった晴敏も、そのことには流石にショックを隠し切れなかった。それほどまでにあんな男女のことを愛しているのか?GID(性同一性障害)当事者が性別を変更して結婚するのは無論、法的に可能であるし、珍しいことではないと美咲先生は言った。だが、頭の古い晴敏にそんな話が理解できるはずもなく、却って、馨への憎悪が増すばかりだった。晴菜が馨の自宅にいると聞かされたのはまさにそんな時で、晴敏は、怒りに任せるまま、馨に暴言の限りを尽くした。

「君みたいな訳の分からん奴に娘を預けた覚えはない。すぐに返してくれ!」

 馨はそれに応ずる様子を見せたものの、晴菜との結婚に関しては態度を曲げなかった。

「自分は晴菜さんを愛しています。例え、お父さんに分かってもらえなくても、自分に嘘を吐くことだけは絶対にしたくありません」

 晴菜が自宅に不承不承戻ってきたのは、その三日後のことだった。晴敏は、晴菜に翻意を促そうとまた性懲りもなく見合い話を持ち掛けたが、晴菜は全く相手にしなかった。その頑なな態度には大らかな妻の藍子でさえも閉口し、諦めの言葉を口にさせるほどであった。

「子供に親の望みを押し付けるのは親の傲慢なんじゃないかしら。あの子ももう大人なんだから、じっくり考える時間を与えても」
「簡単に言うな」

晴敏は聞きたくないと言わんばかりに妻の言葉を制した。

「お前はあいつに苦労させたいのか? 孫の顔を見たいとは思わないのか? 俺はあいつに幸せになってもらいたいだけだ。それの何がいけないっていうんだ!」

 藍子はそれ以上、何も言い返さなかった。

 晴菜との関係がギクシャクしたまま、晴敏は無為に日々を過ごした。その頃の世間の関心事と言えば、世界チャンピオンを目指す馨の動向についてだったが、晴敏の職場では、以前から言われていた暴行恐喝事件が再び話題を独占し、社員を戦々恐々とさせていた。上司がわざわざ朝礼の時間を割いてまで注意を呼びかけたところによれば、昨日も、他会社の社員が数人の若者によって袋叩きに遭い、金品を盗まれたという。晴敏は、晴菜のことで頭が一杯だっただけに、後で実際に被害に遭うまでは、そのことを対岸の火事としてしか捉えていなかった。
その夜、同僚と酒をしこたま飲み、散々に愚痴を吐いた晴敏は、若者たちからすれば、格好の餌食と映ったかもしれない。

「おっさん、ちょっと金貸してくんない?」

その若者たちは、脱法ドラッグのやり過ぎなのか、頬はこけ、目の焦点は合っていなくて、薄ら笑いを浮かべる口の隙間からはすきっ歯が覗いていた。晴敏は、その中の一人に馨の顔を重ね合わせ、声を限りに罵倒を浴びせた。

「何でなんだ、何で俺の娘じゃなきゃいけなかったんだ? 何でお前みたいな奴に」 
「何だよ、このおっさん、気持ち悪ぃな!」

 晴敏は、周りにいた若者たちからパンチとキックの返礼を一斉に受けて、その場に蹲った。そこをたまたま通りかかった馨が割って入り、凄まじく速いジャブを若者たちの顔や腹に叩き込むと、晴敏を囲んでいた人の壁は、あっという間に崩れ去った。馨に助け出された晴敏は、這う這うの体で近くの公園まで移動し、
酔いが冷めるまで馨と話をした。

「この間は酷いことを言ってすまなかった」
「別に気にしてませんから」

馨は顔を綻ばせてそう言った。その気持ちの良い笑顔は晴敏の気持ちを揺らがせるのに十分だった。

「君は、あるいは、素晴らしい青年なのかもしれないが、そのことと、娘の結婚相手として相応しいかというのはまた別問題だ」

 押し黙る馨に対して、晴敏は更に続けた。

「娘には幸せになってほしいと思っている。でも、君がその相手でなければならないという必然性はどこにもない」

晴敏は深々と頭を下げ、涙ながらに訴えた。

「頼む、この通りだ。娘のことは諦めてくれないか?」
「顔を上げてください」

 馨は晴敏を優しく諭すように言葉を継いだ。

「自分もお父さんの立場なら反対していたと思います。古いとか新しいとかじゃなくて、それが親として自然の感情だと思うから。だけど、それでも、自分は諦めたくありません。晴菜さんを愛し、守り抜くことが、自分が男として生きる理由なんです」

 馨は晴敏に一礼すると、踵を返して去って行った。

 その後、自宅に戻った晴敏は、玄関先で荷物を抱えた晴菜と出くわした。

「私、出て行くから」
「もう一度じっくり話し合わないか?」
「そんなの無駄だって分かってるよね?」

 背後でドアの閉まる音がして、晴敏はその場で深く項垂れた。娘がもう以前の娘ではなくなったこと、そして、彼女に対して何もしてやれない己の無力さに苛立ちを覚えた。