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意味を持たない言葉たちを繋ぎ止めるための掌編

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正しい街



「私は決めたんだ。東京に行って、私自身の力でどれだけのことができるのか確かめようって。そのためには、私は昂輝と別れなきゃいけない」と私は言った。
 昂輝は橋の欄干に手をつき、無気力に溜息を吐いた。空虚な瞳は橋の下の川を見つめていた。「勝手だな」と昂輝は低い声でぼそりと言った。昂輝はひどく怒っている。口調ですぐにわかった。昂輝は怒ると、大声で叫ぶのでもなく、低い声で落ち着いた声で喋るようになる。
「分かってる。でも私には必要なことなの」と私は言った。
 昂輝は黙ったままだった。私が口を開こうとしたとき、私の言葉を遮るように言葉を発した。
「この川」と昂輝が言った。「流れていないみたいだ」
 想像もしていない言葉に私は少し戸惑った。私は昂輝の隣にいき、同じように欄干に手をあて、川を見下ろした。川はまるででたらめに絵の具を混ぜ合わせたかのように淀んでいた。昂輝の言うとおり、川の流れはとても緩やかで一見するとどちらに流れているのかわからない。
「川の流れがどうかしたの?」と私は訊いてみた。でも、昂輝の返答は分かっている。
「ただ、思っただけ」と昂輝は言った。
 “ただ、思っただけ”。これは昂輝の口癖のひとつだった。昂輝はよくこういう奇妙なことを私に訊く。そして、私がその真意を問うと、必ず “ただ、思っただけ” と返した。さらに返答しても、彼は興味をもたなかった。なぜなら、“ただ、思っただけ”なのだから。
「この川はどっちに流れていると思う?」と昂輝が訊いた。
 この川は海と繋がっている。この欄干からもその先の海が見える。こんな質問は簡単だった。
「あっち」と私は海の方向を指差した。
「本当に?」と昂輝はこちらに振り返り、言った。昂輝と視線があった。が、昂輝はすぐに目を逸らした。
「そう」私は頷いた。
「じゃあ、俺はこっちだ」と昂輝は言った。昂輝は私とは反対方向を指差した。私がそれに反論しようとした瞬間、昂輝は私に歩み寄り、キスをした。それは、ほんの一瞬だった。触れたのかもわからないくらいに、一瞬だった。昂輝はそれからすぐに私から離れた。私は動揺して言葉が出なかった。まるで喉の奥で何かが詰まってしまったように。
「じゃあな。もう会わないよ」と昂輝は言い、目も合わさずに、去って行った。私はただ呆然と立ち尽くしていた。橋を走行する自動車の音が歪んで聴こえた。川の流れる音は何も聞こえなかった。街は橙色に包まれていた。私はどれだけその場所に立ち尽くしていたのかわからない。それはほんの一瞬であったのかもしれないし、とても長い時間だったのかもしれない。時間の感覚がすっぽりと無くなってしまっていた。昂輝のキスは私の時間をぐちゃぐちゃにしたようだ。
 早くここを去らなくてはいけない。私はそう思った。一歩踏み出したとき、目元に溜まっていた涙が毀れそうになって驚く。涙が溜まっていることに気づいていなかったから。涙が毀れないように私は鼠色のパーカーの袖に涙を沁み込ませた。涙は黒い沁みを作った。その沁みは、私の下に流れる川みたいに淀んだ色をしていた。
 
 ベッドに入り込んでみたものの、全く眠れなかった。何度も寝返りをうった。ついに私は眠るのを諦め、照明を点けた。スマホで時刻を確認した。深夜2時。部屋には引っ越しのためにまとめた段ボールが積み上げられている。東京へもっていくものをまとめてみたら、段ボール3つで事足りてしまった。部屋に置かれた3つの段ボールはまるで私の卑小さの暗喩のようだ。私は壁に立てかけられたリッケンバッカー660を手に取り、アンプに接続した。アンプにヘッドフォンを繋ぎ、耳にはめた。アンプのVOLUMEとGAINを最大にし、リッケンバッカー660の音を無理やりに歪ませる。腕を振り上げ、勢いよく弦を弾き下ろす。ひどく歪んだ地響きにも似た大きな音がヘッドフォンから鳴り響く。私は目を閉じ、その音に耳をすませる。その音のなかに身をまかせる。その音はぐちゃぐちゃになった私の心をさらにぐちゃぐちゃにした。どうしてなのか、それはとても心地よかった。私は静かに目を開き、リッケンバッカー660を撫でる。
 これは私と昂輝を繋ぐものだ。私は中古楽器店に置かれたこのギターに一目惚れをした。しかし、値札には20万円と赤色のマジックで殴り書きされていて、私は落胆せずにはいられなかった。店主に、必ず買うから取っておいてほしいと頼んだ。はじめは渋っていた店主だったが、最後には折れて「しょうがないな」と言ってくれた。私はギターを手に入れるために、今年の夏休みはコンビニと喫茶店とファミレスの三つのバイトを掛け持ちにして、朝から夕にかけて働きとおした。夏休みの間に20万円を稼いだ。中古楽器店には昂輝と一緒に行った。店主は18万円にまけてくれると言ったが、私は断った。私が稼いだ20万円はこのギターを買うために得たものだからだ。この全てを使い切らなければならない。そう思ったのだ。購入しようとレジに行ったとき、昂輝は黙って10万円を出した。突然のことで、どういうことかうまく理解できなかった私は昂輝を見つめた。俺が半分だけ払う、昂輝はぼそりと言った。受け取れない、と私は断ったが、半分だけ出させてほしい、と昂輝は懇願した。言い争いは一時間にも及んだ。これほど昂輝が頼み込むことは珍しかった。結局、私は昂輝から10万円を出してもらい、660を手に入れることになった。私がギターを買うためにバイトで得た残りの10万円は封筒に入れたまま、使っていない。使ってはいけないものだからだ。あのとき、昂輝があれほど頼み込んだことは不思議に思ったが、今なら昂輝の気持ちが分かるかもしれない。私はリッケンバッカー660を抱き締め、昂輝がお気に入りだった “Nivana” の “you know you’re right” を弾いた。私はNirvanaが特に好きでも嫌いでもなかったけれど、昂輝がこの曲をよく聴いていたから、耳にはこびりついてしまっている。昂輝はNirvanaのいちばんの名曲は “smells like teen spirit” でも “come as you are” でもなく、 “you know you’re right” だと言った。私のかき鳴らず歪んだギターに合わせて、カート・コバーンの歪んだ声がヘッドフォンの奥から聞こえてくるような気がした。

you know you’re right
お前は自分が正しいって知ってるんだ

 まるで、昂輝に言われているようで、私は小さく笑った。