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筒井リョージ
筒井リョージ
novelistID. 5504
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君の唄

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初めて彼女に会ったのは、春の初め。
妹が生まれてから間も無く、うららかな午後だった。

僕はやっとベースボールクラブでレギュラー入りを果たし、その日ご機嫌で学校から帰った。
家に着くと、母の姿が見当たらず少し不思議に思ったものの、真っ直ぐに自分の部屋へ行き草臥れた革の鞄をベッドへ放り投げ、壁に立てかけたバットとグラブを掴んで直ぐに階段を駆け下りた。
宿題が随分と沢山出ていた気がするが、こんな天気のいい日に部屋に閉じこもって勉強なんて馬鹿げている。
キッチンを横切り裏口から出ようとドアに近付いた時、妹が寝ている部屋から小さな子守唄が聴こえるのに気付いた。
最初は母親が妹を寝かしつけるのに歌っているのかと思って、気付かれないように出ようと足音を潜めたが、よくよく聞くと母の声では無い様に思った。

好奇心は身を滅ぼすと言うが、この時部屋を覗かなかったら、今の自分は居ないのかも知れない。

キィキィと揺りかごが揺れる小さな音に合わせて、聴いた事の無い不思議な子守唄が重なっている。
僕は音を立てないようにバットとグラブをテーブルに立て掛け、ゆっくりと戸口に近付き壁に隠れて部屋を覗き見た。
すると其処には、妹の揺りかごを揺らしながら見たことの無い少女が立っていた。
後姿だけだが少女だと解る華奢な肩が、流れる見事なブルネットの隙間から覗いていた。
この辺ではブルネットというのは珍しい。
それにこんなに見事な黒髪は今まで見た事が無かった。
足首まである豊かな黒髪が動きに合わせてゆらゆらと揺れているのを、僕はぼんやりと眺めていた。

しばらく時を忘れて其処へ立ち尽くしていたが、唐突に歌が途切れ、少女の髪も揺れなくなった。
僕はそれにも気付かず、動けないまま彼女が振り返る様を見ていた。

この瞬間我に返り、目を逸らしていたら一体どうなっていたんだろうと今でも思う。

逆光に輪郭が白くなった彼女の周りで、白いレースのカーテンが揺れていた。
静かに振り返った彼女の顔を見て、僕は息をするのを忘れたようだった。
小ぶりな作りの頭。白を通り越し青白いとすら思える肌に、零れ落ちるんではないかと心配になる程大きな瞳が二つ。
だがその瞳は燃える様に真っ赤な色をしていた。
まるでコントラストの高い絵を見ているような気分になった。
その絵のモデルは、それまで歌っていた唇を少しだけ開けていたが、それも全て夢の出来事の様に一瞬で掻き消えてしまった。
一体何が起こったのか理解できずに居た僕の後ろから母に声をかけられ、そこに日常が戻って来ていた。
抵抗する事すら出来ずに捕まった僕は、部屋に押し込まれて宿題を命じられたが、そんなもの手に着かないほど興奮していた。

この日僕は恋をしたようだった。

それも人ならざる者に…。

それから何年経っても彼女に会えず、僕もそれなりに成長した。
ただ会えない時間を流して生きたのではなく、その間彼女について色々と調べてみたりもした。
知れば知るほどもう会うことは出来ないのではないかと半ば諦めたりもした。

そしてどんどんと歳をとり、夢だったメジャーの選手になることすら叶わず、父の跡を継ぐ為建築会社で働いた。
その頃には幼い頃の初恋など、遠い記憶に挿げ変わっていたし、婚約者も居た。
自分はこのまま平凡な幸せを生きるのだと確信していたのだと思う。
だがそんな平凡も、もう思い出すことすらしなくなった彼女の声を、仕事帰りの雨の中聞くまでの事だった。

雨の路面は反射して視界が悪い。
強い雨脚に見通しも悪く悪条件の中車を走らせる。
片田舎の夜、都会では考えられないような静寂を雨の音だけが響き、その鬱陶しさを追い払う為にカーステレオのボリュームを上げていた。
それなのに、車内の音量すら元々存在しなかったように、声は僕の耳にハッキリと聞こえた。
思わず急停車して辺りを見回す。
辺りは暗くて、相変わらずボンネットを叩く雨の音が響いていた。
幻聴かと思ったが、やはり確かに聞こえていた。彼女のとても悲しげな泣き声が。
僕は車を降り、雨の街を見回した。人影すらない真夜中の雨に、泣き声が木霊する。
何処に居るのかと必死に目を凝らして辺りを見回すと、通りの向こうから小さな影が駆けて来るのが見えた。
その瞬間、今まで忘れていた幼い想いが甦り、雨に濡れるのもかまわず僕は駆け出していた。
小柄だがとても足の速い彼女の細い手首を、擦れ違いざまに掴むと驚いたように濡れた瞳が僕を映した。
雨の街を素足で駆けていた彼女は、頭から足先までずぶ濡れで、ルビーに例えられそうな瞳だけが変わらず揺らめいている。
その姿は、幼い頃見たままで、何一つ変わっては居ない。ただあの日の歌声にかわり、耳を覆いたくなるような悲しい泣き声なだけだ。
一体誰が死ぬのかと、気まぐれに問い掛けた。
そして返ってきた名前に衝撃を覚えて、それまで逃げられるのではと強く掴んでいた彼女の手首を離してしまった。
「ダニエル…ダニエル・サリヴァン…」

父だった。

父は最近身体を崩し、働きすぎが祟ったのだと言って、療養もかね先週から入院していた。
その為に現在は自分が、社長をしている父の仕事を全て引き受け、連日こんな真夜中まで働いていたのだった。
まさか父がという思いに、彼女と再会した高揚など霧散していた。
手は離してしまったし、きっともう消えてしまっただろうと思ったが、彼女はまだそこに居た。
重く濡れそぼった長い髪が頬に張り付き、雨なのか涙なのか分からないくらい雫を落としている。
「あぁそうか…願い事を3つ叶えてくれるんだったね…」
小さく呟いた声に、頷く事すらせずただただ彼女は涙を流していた。

翌日、父は眠るように息を引き取った。
苦しまなかったのがせめてもの幸いだ。





「それじゃぁ、この泣き声はその人のものなの?」

幼い声が無邪気に問い掛ける。
「そうだよ、彼女はとっても泣き虫なんだ…」
「おじい様は怖くないの?バンシーは死を呼ぶんだって聞いたよ?」
遠く聴こえる泣き声に、怯えたように幼子がカーテン越しの夜を見つめていた。
「それは違うよニーチェ。彼女は誰にも訪れる死というそのものを誰より悲しんでいるんだよ。怖いどころか優しすぎるその心が逆に心配ですらあるよ」
笑顔で答える老人に、幼女は眠い目を擦りながら続けて問い掛けた。
「おじいさま。おじいさまは何をお願いしたの?」
「あぁ、その話はまた今度にしようね。もうお休みの時間だよ?」
まだ平気とごねる幼子をなだめていると、彼女の母親が上がってきて連れて行った。
「おやすみなさいおじい様」
「おやすみニーチェ」
笑顔の母親が部屋の灯りを切って扉を閉める。
急に近付いた夜の静寂に、老人は耳を澄まして目を閉じた。
遠く聴こえていた泣き声は、今は聴こえない。
灯りと共に消えてしまったみたいだった。
外からは小さな虫の声が代わりとばかりに忙しなく鳴いている。
静まった廊下の奥から、ひたりひたりと、素足で床を進む音が微かに聞こえる。
だが老人は目を閉じたまま動かない。
その内に足音は止み、部屋の中に静寂が戻ってくる。

「…遅かったね。待ちくたびれてしまったよ…リリィ」
作品名:君の唄 作家名:筒井リョージ