栞
『好きです』と言ったあなたの言葉は、桜の花の咲く季節でした。僕は桜の花びらを2枚、えんじ色の辞書に挟んだのです。そのページは最初の方で『あい』のページでありました。この三省堂発行の国語辞典には、ページ数が記されていませんでした。ここからあなたとの出会いが記されたのです。
『結婚しましょう』と僕の言葉に『はい』と言ってくれたのは、塩原からの帰り、モミジが真っ赤に映えていたのです。僕は紅葉の葉を『家庭』の文字のページに挟んだのです。
初めての子供が誕生したのは、雪の降る日でありました。僕は赤い実の付いた南天の青々とした葉を、『希望』の文字のページに挟みました。その娘が嫁ぐ時、文字を探しながら『幸せ』のページに、『お世話になりました』の娘からの手紙を挟んだのです。
娘の手紙で辞書が満腹の腹のように膨れました。その時その時の、メモリーが写真のアルバムよりも僕に言葉を伝えてくれるのです。孫が生まれ、ふたたび、希望のページを開くと、南天の葉の色は薄くなっていたのですが、押し花としてしっかりと形を保っていました。
ページ数の無い辞書、エンドレス。繰り返してくれたらいいと思うのは、僕たちが過ごした過去の幸せを娘たちにも与えられたらと思うのです。
辞書には、悲しみ。怒り、不幸などの文字もあるのですが、娘たちにはそんなページはいらないのです。『幸せ』だけの文字を書き、僕は『娘』の文字のあるページに挟みました。
吸い込まれそうな秋の日の空を観ながら、寄ってくる犬たちを撫でながら、妻と2人だけに戻った日の寂しさが、昨日のように感じられたのです。