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八月七日

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死のうと思った。真夜中に眼が覚めたから。それが約束だった。
 日々膚に染み着いた口渇感によって全身が乾涸びそうになっている。上体を起こす。今まさに廻転を止めて行く独楽のように、身体がゆるりゆるりと揺れ始める。それは寝ているベッドが軋まないような揺れ方で、窓の向こうでも外灯がふらふらしていた。誰か、中庭を歩いていた。だがそれらは全て私の空想で、隣で添寝する妹が立てる寝息と、襖一枚奥の母の微かな鼾と、エアコンから額が痛むほど吹き付ける冷たい風とが、実感を持って私を取り巻くものだった。それ以上を数えようと思えば幾らでも数えられ、また数えようとしなければいくらでも削ぎ落とせる。認識は荒野ほど拡がり、私は果てしない空の向こうまで見透かせた。
 誰かが中庭を彷徨っている。
 俄かに、自分を傷付けたくなった。だが、刃物も薬剤もその衝動に適わず、また此の場に無かった。そして、唯一つ残されたこのはだかの拳を振り上げて自分を殴打する気力も既に失われ、そしてそれほどの昂奮はもう決して起こりそうになかった。枕元の携帯電話を探った。二段ベッドの隙間に落ちかけていたそれは体温を具えていなかった。これほどまで余所余所しいくせに人の掌に馴染んだふりをする隣人は、他人と繋がることのできない私にとっては憎しみの対象でしかなかった。ただ時折人の声で鳴くので、騙されるより他に生きる方法が無かった。画面を点灯させたが、そこに映った時刻を、次の瞬間には思い出せずにいる。そのとりとめのなさ、印象の散じ方は夢の中に似ている。中庭で影がうろうろしている、という気配はまだ続いていた。私は視力の悪い方の眼を閉じ、中庭を思い描いた。右に映じたのは言うまでもなく人影のない風景である。不意に、それは自身の影絵であったと思い立った。動揺は収まっていた。
 妹の身体を跨ぎ、床へ下りて、私は歩いて行こうとした。ベッドの柵を手離した途端よろける。母のハンガーラックに倒れ掛かった姿勢で前方の闇を睨む両目は泣き腫らしてすっかり鈍である。子供のようだと嗤ったのは私ではない黒の虚空に遊離していてそれを眺めている男であるが、その男には実体はなく煙ほどの存在感すら具えていない。あの例の人影は、ここ数年私に付き纏っている物怪であった。闇の底からぼそぼそ何か囁いてくる。その声を振り払おうにも喉が渇き過ぎていて、私は力無い眼差でそいつを一瞥することしか出来そうになく、無視を決め込んだ。もう一歩進んで、其処で脚が打ち込まれた杭のように固まった。動けない間、床はだんだん温かくなった。其処を踏んだ時に足裏を浸した夜の間の冷たさは、この体温に温められて私の友人に成り下がっていく。だが、多くの「友人」がそのようであったように何れ親しみのない他人へと変わり、そしてもっと大きな大きな群像へ吸い込まれていくのであろう。そしてその中へ、きっと私は昵懇の者として入ってゆけない。そう思うと、すらりと脚が動き出した。けれども、寂しくていけなかった。私は様々な寂しさを思い出して凍える。熱を出して部屋で寝ている時に聞く、壁越しの家族の団欒。私が部屋に籠もっている時、廊下の向こうで交わされている談笑の気配。私が存在せずとも動いている世界。私が居ない方が、円滑に、長閑に進んでいく世界……。闇へもう一歩踏み出した。踏み出すごとに凍え切りそうなほどの寂寞に襲われた。赤ん坊が初めて親元を離れて歩き出した頃、目の前に両親が待っていない空間へ進んでいく時の寂しさに似ている。振り返ることも出来たが敢えてしなかった。それが、自分と交わした最期の約束だった。私には、もう帰る場所は無い。
 背後の闇が少女の声色で何事か呻く。
 馬鹿が、と悪態を吐く。
 居間へ下り、台所のフローリング地を踏みつつも、私の身体は冷蔵庫を通り過ぎていった。小窓を開け放した。夜は深いように見えて、遠くの遠くの空の向こうは夏の青色を透かして完全なる漆黒は何処にもなかった。また寂しくなった。夜風が、見掛けだけは生娘のような私の頬の産毛をさわっている。窓枠から身を乗り出し、月光に冴え渡った風に骨張った肉体を晒して、眼下遥かな暗闇の世界に見入った。此処はアパートの三階。生きるには足り、死ぬには不十分な孤島……。
 人影が私の目の高さで揺れている。何かを捜していて、その実それが何処にも見つからないと解っている足取り。そいつは、もう死んでしまえと囁き掛けてくる。近付いては離れ、また離れては近付いてくる。導かれるように、私の身体は徐々に虚空へとせり出していく。肩の幅よりも狭い窓から、まず右足を窓枠に載せ、膝を前へ突き出す。屈伸した関節が軋んだ音を立てる。そして左足も、筋力の無さを痛感するほどの鈍(のろ)さで、桟に並べた。後ろから見れば醜いだろう。だが、人が虫籠から脱け出ようとするならこのような姿を取る他無いのだ。後はこの、未だ醜く肉を蓄えた尻が残されている。
 重心を移動させさえすれば、万事上手くいくはずであった。飛び立て。飛び立つのだ。さすれば私は転落し、アスファルトへ叩き付けられ赤い花を咲かすことが出来るだろう。この生涯を以て、一輪もほころびることのなかった悦びの花を!
 息を深く吸い、吐き、また吸い込んだ。夜気は排気ガスの味がした。その久々の酸素に驚いたように、心臓と名付けられたそれが脳内で収縮を再開する。私は色々と思い出してしまう。水を求める喉の渇きや、無垢な肉体のぬくもり、シャツ越しに私を抱いた、母の乳房のやわらかさ……何より私へと呼び掛けた、あの妹の声……。
 私は窓の桟を掴んだまま仰け反り、また死に損ねたことを悟り、泣いた。涙は塩辛く、一層喉が渇いた。
 訝しんで起きてきた母が縋り付いてきて、未明、私は病院に収容された。今は、血を濁す薬にまどろんでいる。

 ああ、母が作った粥が食いたい。

作品名:八月七日 作家名:彩杜