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不安/断片

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 薄笑いを堪えんばかりの目つきで外科医が訊いてくるが、なんとも仰っていないのでぼくは返答に困る。消毒が終わり、何らかの緊急性が認められたらしいぼくは、もう一度精神科へかかることになった。病院の長い廊下を歩きながら、ぼくはぼんやり考えている。もし入院とかそういう話になったら断固断ろう。彼女に申し訳が立たないし、いよいよ愛想を尽かされてしまうかもしれない。それとも、一層ぼくを愛してくれるだろうか? 病んだぼくを、病んだ書き手として愛してくれるだろうか? …………何なんだこの文章は。用紙に消しゴムを押し付ける。ぼくは何を書こうとしているのだ。消しゴムはみしみし言って折れる。現実を基にした空想から物語を作れないぼくは、私小説的書き手だった。しかし、ぼくの認識をそのまま書くのは、やっぱり駄目だ。現実を何とか曲解し、何か味わいのあるものへ昇華しなければならない。ぼくの場合なら、まっとうな認識に書き換えるのだ。たとえば、胸に付いているボタンが笑いかけてくるとか、カーテンの隙間から沢山の眼が見張ってくるとか、そういう話は荒唐無稽とみなされてしまうだろう。幻覚たっぷりの世界では何があってもおかしくないし、また何かあっても無かったのと同じことかもしれない。ぼくは読者に信用されたい。小説家として嘱望されたい。ぼくの作品を愛してくれる彼女が居なくなっても大丈夫なように。
 もしかしたら彼女に棄てられるかもしれないと、ドアを開けるなり口走ると、精神科医は困惑の色を濃くした。一度は追い返したセールスマンが懲りずにやってきたのを見る時の顔だ。
「まあ、人の心はうつろいますからねえ……そうならないように、何か自分を見直してみるとか、色々出来ることはあるんじゃないですか?(人生お悩み相談室じゃないんだよ此処は)」
 本音が露骨に丸出しになっているのでぼくは驚いてしまった。呆然と立ち尽くすぼくに、「どうしたんですか、かけてください(次の患者が居るんだけどなあ……)」と精神科医が椅子を勧める。だが本音が丸出しなのだからどうしていいのかわからない。
「(時間が押しているので早く診察を終えたいのですが)精神的にかなり動揺していらっしゃるようですね……(あなただけじゃないですけど)生活にも不安を抱えているようですから、(あなただけじゃないですけど)とりあえず、不安を和らげる方向で考えてみましょう。……大丈夫ですか? 何か見えたり聞こえたりしているようでしたら遠慮なく仰ってください」
 先生の本音が聞こえています、とは言えず、ぼくはすっかり困り果てた。その代わりに、いや、さんざん待たされてこんな風に言われるんでしたら結構です、とぼくがもごもご言うと、もっと困った顔になった。福笑い風の顔の上で、唇と眉毛がくっつかんばかりに近付いている。
 唐突に、自分に起きた異変を思い出した。文字を指から発射できる、というやつだ。
 意気込み、人差し指を医師に向けた。怪訝な顔の医者に、指から文字が出るんです、そう話す声が震える。実際に発射したらどうなるのか、ぼくは知らなかった。彼の胸骨を破壊し心臓を貫くほどの威力を持っているのか、それとも小石が当たるほどの威力しかないのか。前者なら殺人罪、後者でも、まあ、傷害罪だろう。ぼくは本気だった。この男から血飛沫があがるのを具体的に想像してわくわくした。それは好奇心の疼きだった。一方で、妄想にやられた患者だと決め付けているこの男の息の根を止めてやりたかった。
 その時、実行しようとしている自分や、躊躇う自分や、その自分を分かっていて止めもしない自分や、この状況を馬鹿げていると嘲笑している自分が、ぼくの中でにょきにょき生えてきた。皆、無表情であった。そのぼくたちは無限に増えていくようだった。すると、診察室内の、ペンや、医者の眼鏡や、壁のポスターが全てぼくの部分のような気がしてくる。この診察室は、ぼくの全身なのかもしれない。いや実際そうなのだ。これはぼくから表出した幻想。全てが現実のような顔をした架空。この精神科医も、外科医も、あの看護師も、全て紙面上の人物だ。オカザキくんは……ぼくも良く分からない、もしかしたらぼくの一つの可能性だったのかもしれない。
 なんでもいい、全て架空だ!
 ぼくは原稿用紙を丸めてしまった。そして広げ、もう一度自分の字面を眺めてから縦裂きに破ってしまう。……その方がいいのだろうか? 下手糞な文章で埋まった原稿用紙の前で人差し指を眺めた。傷から、インクの壺を倒した時のように明朝体フォントの真っ黒な文字が流れ出していく。それが机に置いている手首を浸し、近くに転がっているガラス片の光を汚していく。その光景をぼくはじっと見ていた、ということを書こうとしたが、利き手を動かすのすらもう億劫だった。結局あの後、ぼくはあの精神科医を殺そうとしたのだろうか。それとも殺したから、人殺しと付き合いたくない彼女はもう帰って来なくなったのか、それともそれとこれとは無関係で、……あああああもう何が何だか何もわからない、なにが小説だなにが文学だ、糞喰らえ、生活できなければぼくはゴミクズなんだ。ああ、しかしなにが生活だなにが愛情だ、なにが…………
 処方された薬を飲んだ。頭が冴えた。感覚が鈍磨した。少し眠たい。また原稿用紙に向かった。
 彼女は、もうすぐ帰ってくる。ぼくは待ち続ける。
作品名:不安/断片 作家名:彩杜