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不安/断片

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床でコップが炸裂するのを呆然と見ていた。彼女が「そういうことなの」と言い、例の悲しげな眼で破片を見た。甚大な爆発の後のように、部屋は静まり返っていた。
「そういうことだから」
 彼女はぼくを見据え、もう一度念押しするようにはっきりと言い切り、そして椅子に掛けていたコートを着て出て行った。扉が閉まる音はあまりに静かすぎ、彼女が隣の部屋でまだ立っているような気がした。勿論、彼女は出て行ったのだから居ないのだが、ぼくは彼女が居なくなったことを何度も何度もわざわざ確かめに行き、彼女の履いていた赤い靴が失せてしまったのを見、これからどうしよう、と思う。
 これからどうしよう、と口に出して、しゃがんで、割れたコップに描かれていたネコと顔を見合わせた。
「どうしようもないよ。割れたコップでは二度と水が飲めないようにね」
 彼女の口調そっくりにネコが喋り出した。ネコは顔の右側を失っていた。
 それじゃ、ぼくがきみを割ってしまったのがいけなかったのか、と訊くと、君は何も分かっちゃいないね、と床に落ちていたコーヒースプーンが話し掛けてきた。磨かれたコーヒースプーンは鏡のようにぼくの顔を映している。その顔は蒼白く固まっている。
「だから何もかも駄目にしちゃうんだ」
 ……とにかく破片を拾わなければならない。手が震えて上手くいかず、カチャカチャという音だけがいたずらに鳴った。そのカチャカチャがガチャガチャになり、「おまえはおまえはだから駄目なんだおまえは「駄目おまえはおまえは」おまえは」「おまえはお「まえはおまえはおまえはだから駄目な「おまえはだから失敗失敗失敗失敗失敗」と無限に増幅を始める。悲鳴をあげ、後ろへ飛び退った拍子に、破片を摘んでいた指同士を強く握り合わせてしまった。「キャッキャッキャキャッ」さっきからずっと猿の喚き声が隣の部屋からしている。隣の男女が性交しているのだ。後ろに手を着いた途端、その痛みが肉へ食い込んだ。細かい破片が刺さってしまったらしく、見ると、血液が赤いビーズ玉のように膨らんでいた。
 さるのなきごえがする。それが「死ね死ね死ね死ね死ね」という呪詛に変わるまでそう時間は掛かるまい。指を口に含み、吸い、歯を立てた。血の味と一緒に、ぼくは噛み過ぎたけれど棄てられないガムだったんだ、という実感も呑んでしまう。風船ガムのように愉しむ余地もなく、そのうち嘔吐感へ変わっていくような味気のなさが「鬱陶しいんだ」小人がくるくる踊っている、くるくる踊るしかない「能無しが」。彼女の置いていった一万円札の福沢諭吉がけたたましく笑い出した。女の声だったので驚くと、樋口一葉だった。ぼくはつい叫んでいた。「五千円」、すると、印刷されている「五千円」と云う文字がするりと紙面を抜け出し、中空を踊り始めた。コーヒースプーンも踊り始めた。破片たちは歌い出し、猿の男女も情熱的に歌い続けた。ただ一人、小人は踊るのをやめてじっとぼくを見上げていた。「失敗しちゃったね」と母さんの声で嘲笑った。部屋は声で一杯になってしまった。指が、ちくちくした痛みだったのが、次第に心臓のリズムに合わせてずくずくと痛み始める。ぼくは歌いもせず踊りもせず部屋の真ん中で立ち竦んでいた。
 そしてどうも、あれからぼくはその指から文字を発射できるようになってしまった。これを書いている今も。いつか君を殺すために、ぼくは書き続ける……。
「そうなんですかあ」
 医者が深く頷いた。これがその時の傷なんですよ、と――実はどうにもなっていないらしいがぼくはそれを認めたくない――人差し指を医者に向けた。ぼくの指を見て医者は眉を顰めた。と言っても、先生の顔は福笑いのようにばらばらになっているからこれは推測でしかない。
「爪、剥がしたんですか」
 ええ? はい? と、ぼくは素っ頓狂な声をあげている。その、剥がしたんですか、という言い方が気に食わず、そんなわけないじゃないですか、と怒った風を装ったのに「剥がれてますもん」と医者は平然と言った。慣れていやがる、と思ったつもりが声に出していた。慣れという現象が今のぼくには癪に障る。待合室で老人たちが談笑しているのを、自分が笑われているものだと感じたから、なんだこのやろうと向こうへ怒鳴った。
「落ち着いてください」
 と、医者に宥められる。しかし、ぼくは今、彼女とのことで苛々しているから紳士的で居られないのだ。ぼくは彼女の、所謂ヒモだった。あの、働かずに恋人に生活資源を依存するアレだ。ちなみに彼女の家を追い出されるともう家が無い。つい二年と三ヵ月四十三日前――ぼくは一ヶ月を六十日周期と決めている――には、親戚の家の離れで暮らしていたが、いよいよ追い出されるという頃に彼女と出会い、共に暮らし始めた。その彼女にフラレてしまったのだから、心中を察してほしい。
「すみません次の患者さんがお待ちですので……まあ、とにかくお薬出しておきますのでね、ウン。あと、傷に雑菌が入るといけないのでこの後うちの外科に行かれて、消毒した方がよろしいかと……ウン」
 医者はぼくが喋っているのを早口に遮って、ぼくを診察室から追い出した。ソファーでは、オカザキくんがしきりに咳き込みながら「みんな死ね」というメッセージを周囲に発信し続けている。彼の咳払いには何か大きい概念への怨嗟が籠もっている。オカザキくん、調子どうだい、と声を掛けたが無視されてしまった。彼は世間への怨みが原因で肺病病みになってしまったのだ。ついでに重度の吃音症でもある。一時期友人のように親しかったはずなのだが、まるで他人のようにしらんぷりを決め込まれると気分が悪い。
 処方箋を受け取り、病院を後にした。外は眼の奥まで日焼けしそうなほど眩しかった。…………というようなことを原稿用紙に書き切って、溜め息を吐いた。これから面白くなりそうな気配がないからだ。
 ぼくは自分を轗軻不遇の作家だと認めている。零細の月刊雑誌に連載していたこともあるが、雑誌が廃刊になっていよいよ仕事を失ってしまった。生まれて二十五年、いよいよ路頭に迷って飢え死にするか、という折、彼女と出会った。派手な外見の女なのでぼくのタイプではなかったが、年上の女に憧れはあったし、付き合ってみると彼女は大層面倒見がよかった。ただ、近頃ぼくと話していると、酷く疲れたような顔つきになるのが気に掛かっていた。
 もしかしたら彼女に棄てられるかもしれない、と目の前の外科医に話すと、彼は少し困った顔になった。外科医の隣で、胸の大きな看護師がぼくの人差し指の爪を消毒している。爪は何ともなっていないのだが、まだ年若い感じの看護師は一生懸命消毒してくれている。ぼくの指の上で消毒液がひんやりするたびに、彼女の胸がやわらかそうに揺れる。……美しい女性であれば尚更嬉しいのだが、彼女の顔の道具はばらばらなので判断はつかない。すると、蒼白い顔の真ん中で赤い唇がそっと笑いかけてきた。激しい疚しさに襲われて目を逸らす。
「精神科の先生は、なんと仰っていましたか……」
作品名:不安/断片 作家名:彩杜