林檎と腐敗
男は寸での処で流しに顔を落とす。濁った声が出る。嘔吐物が胃から逆流してきてステンレスにぶち撒かれ、饐えた臭いが拡がった。昨日の残飯と共にぬるぬるとした胃液を絞り出し、奔流は収まっていく。量が然程多くないのは救いだった。灼けるような喉の痛みと吐き気に咳き込みながらも、男は嫌に冷静だった。林檎の滓が、泡立つ胃液の中から彼を仰ぐのが見えた。
男は、そいつが何処までも惨めだと思った。時季外れに温かな所から追い出され、行き着く先は下水道だ。可哀想に。冷たい縁を掴んでいた手を、ゆっくりと林檎に差し伸べる。小さくなった一片を掬い上げ、まだ嘔吐感の残る口内に押し込んだ。咀嚼するより呑み込んだ。一つ入れたら、どんどん救ってやりたくなった。夢中で掻き集めて放り込む。手で掬えなくなってくると、身を乗り出してシンクの底に舌を這わせた。ステンレスの冷たさに震えた舌は、まだ仄かに生温い残飯に癒されるようで。感じた安らぎは、遠い昔、母が作った粥に抱いたものに似ていた。あんなに邪険にした酸味すら、最早いとおしく、懐かしい。そんな懐古に浸りながら、噛み締めた米粒は胃酸に溶かされて平常より軟らかい。染み出してくる苦味も良いものに思えた。飽き足らずに、シンク自体に唇を着けて啜り上げる。口内に甘美な胃液の風味が拡がる。最初からこうすればよかった、と悔やんだ。静寂の中、行為による水音と自分の荒い呼吸だけが、不透明な自己存在を克明にする。それは何よりも、男が求めて止まない物であった。
一滴残らず飲み込むと、男は優しい充足感に包まれた。一息吐いて、口をすすぐ。それから手と顔を洗うと、男はふらつきながらテレビの前に座り込んだ。適当なドラマを観ながら、大して好みでもない女優で抜いた。一瞬の暗転に映った自分の姿がけだもののようで、男はげらげら笑った。ひとしきり転げ回って、満たされた腹をさする。
出来損ないの林檎。掃溜めから救われる林檎。
こいつはおれだ。
男は目を瞑(つむ)り、いずれ胃の中で溶けていく林檎を想った。静謐な腐敗を想った。温かい心象が胸に蘇り、生み出される。戻ってきた蝉時雨に、男は柔らかなまどろみを覚えた。
薄れ往く意識の中で、唇が弓形(ゆみなり)を作る。それは人として歪であったが、彼の中では、最も美しく、至福に満ちた微笑であった。