小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

林檎と腐敗

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
懐かしい夢を見ていた気がする。
 その浮ついた夢の境界から、彼をずるりと引き摺り下ろしたのは蝉時雨だった。
 上体を起こすと、滴る汗、不快な渇き。鈍く後頭部が痛む。頭に手を遣ると髪が脂っぽく指に纏わり付き、そういえば昨夜は風呂にすら入っていないことを思い出す。呻いて、男は顔を手の平で覆った。道理で泥濘に嵌まったように身体が粘つく。顎の無精髭は伸び切っていた。
 閉ざした瞼の奥に緑や赤がちらついていて、外が明るいことだけは解った。固まった目脂を指でこそげ落としながら、男は向かいの壁掛け時計を見る。十四時半。まただ。毒霧の如き自己嫌悪が心臓に程近い所で噴き出す。以前は自分を置き去りに進んでいく世界に対する恨みや怒りがあって、こうした自己嫌悪の浸潤を食い止めていたものの、最早そのような自負心もその実(じつ)の重みのために首を擡げることはすっかりなくなっていた。
 男は、部屋に射掛けられた真昼の光から逃れるように身体を折り、深々と嘆息した。生臭く、粘ついた吐息が掛蒲団と懐との間で籠もって、繊細な部分を突き刺す。頭痛が酷くなる気がした。呼応するように、ぎゅう、と腹が苦渋の声を漏らす。聴かれる宛てもないのに、浅ましいものに思えて、恥ずかしくて堪らなかった。
 何時に起きようと、男を待っている用事は特別無かった。だが、再びあの夢の世界へ戻っていくことが出来ないのは、腹腔を切なく締め付ける空腹のためであった。何もしていなくても腹は減る。生きている以上は。とにかく、何か食べようと思った。
 蒲団で間に合わせに手を拭き、男は重たい身体を引き摺って冷蔵庫の前に立った。覗き込んだ野菜庫には、ぼけた赤色の林檎だけが入っている。すっかり忘れていた。食べようと思って買ったが、結局剥くのが面倒だったに違いない。腐ってはいなさそうだ。彼の掌ほどで、大きいが、その発色はとても食欲を刺激しない。だが買出しの手間と外の熱気を考えれば、これを食べるしかなさそうである。まだ何処となくじめじめとした口を開けて、彼は林檎に歯を立てた。一口、二口、咀嚼した彼の顔はみるみる歪む。まるで使い古したスポンジでも噛んだようだ。ぼそぼそとして舌触りが悪く、そのくせ変に軟い。甘いのだか酸っぱいのだか良く分からない。それでも咀嚼すべく、機械的に口を動かそうと努めるが、食えば食うほど正体の知れないもののようにしか思えない。
 男の脳がぐるぐると思考を始める。正体の知れないもの。たとえば生き物の肉、とか。芯に行き当る。齧る角度を変える。ならばこれは何の骨だろうか。いよいよ味が曖昧になってくる。淡々と貪る。粘る唾液の中で、塊が口の中で変わり果てた姿になっていくのを想像する。ぐじゅ、と、潰された肉から酸っぱい汁が溢れた。突然の刺激に噎せると痰がせぐりあげた。口一杯に含んでしまった渋味に顔を顰め、吐き出そうと流し台の方へ向かう。一歩ごとに、男は久々に、自分以外の物に対して苛立ち始めていた。右手の塊は既に体温に馴染み始め、ぬるい。男はそれを生ゴミ入れに叩き込もうと思った。何だって俺がこんな奴を食わなくちゃならないんだ。口にしてみると一層腹が立った。何もかも、胃の辺りをむかつかせた。小窓から差し込む白、銀色。隅に溜まった水垢の惨めさ。痰を三角コーナーに吐き捨て、それらを睨み付ける自分。手の中の、死に損ないの、齧られかけ。ろくでなしの命。そこで、はたと思い返す。不意に虚空を彷徨う怒り。矛先を失って焦燥する、萎む。厭に冷たい汗が全身を濡らし、凍えたように手先が震えた。林檎の重みで、手が震えた。
 ――こいつだって生きていた。瑞々しく、つややかな赤色に光を弾ませていた時期があった。
 これはまるで。
 めくるめく世界。夏が、蝉時雨が、遠くなる。出来損ないの林檎。つう、と頬を脂汗が滑る。
 これは、まるで。
作品名:林檎と腐敗 作家名:彩杜