大坂暮らし日月抄
「わが松江藩は、凶作時の食い延べ方法を流布しておるから、領民が食する分にはなんとか遣り繰りはできておる。今のところ、だがな。しかし、この不可思議な天候が今後も続けば、どうなるか分からんのだ」
平野晋作は、しばらく故郷にて役を得ていたが、再び大坂蔵屋敷詰となって戻ってきた。
曽根崎新地外れにある露(つゆの)天神社の境内に呼び出され、ふたり並んで賽銭を放り入れた。
近松門左衛門が、実話をもとに人形浄瑠璃の本として書きあげた『曽根崎心中』の舞台であり、恋に殉じたお初・徳兵衛であるが、死ぬほどに恋の成就を願っている男女がちらほら垣間見える神社で、男ふたりが並んで話し込んでいる姿は不自然で、却って気恥しい。
藩から給金を得ている晋作が、新地の飲み屋に誘ってくれるものと思って出掛けて来たのだが、
「ちとぉ、手元不如意でなぁ。呼び出しておいて、すまん」
と言われてしまっては、仕方ない。
境内にある縁台に、並んで座り腕組みをして、行き交う人を目で追いかけた。
「暮らし向きは、どうだ」
「ああ、今は用心棒の仕事をしておってな。しかも拙者、ひとりの食い扶持であるから、贅沢は出来ぬが息災に暮らしておる」
ひとり、であることを強調した。小雪の、なにかしらの消息がもたらされるかも知れないと、期待したのである。
「で、今日はなんだ」
「故郷(くに)で耳にしたのだが・・・暗殺計画があったとか、国家老の。それに、お主が絡んでいた」
「誰が言った」
「みんな知っておる。誰が言い出したのかまでは分からんが、会った人皆が囁いてくるんだ。栗尾の所在を知っておるのか、と。知らぬ、とは言っておいたが、小さな藩だ。お主との繋がりはよく知られておる。実際、そうなのか?」
「・・・そうだ。ご家老は、何か、言っておられたか」
「特段には、なんにも」
「祖母様に、会ったか?」
「元気にされていた。お主の脱藩によって禄はいただけなくなったが、家はそのままだ。出入りしていた使用人が、よくしてくれているそうだ。不思議なんだが、当のご家老も気に掛けて、何かと世話を焼いておられるということだ」
習い事の帰りらしい、育ちの良さそうな女が風呂敷を抱えた小娘を従えて、賽銭を放り入れて鈴を鳴らし拝んでいる姿を、ふたりはしばらくの間眺めていた。
日が暮れ始め、境内は静まり返っているが、神社から一歩出ると、往来には人があふれかえっている。暮らしにゆとりをなくした者が増え続けているご時世でも、曽根崎新地の賑いは、変わっていないように感じられる。といっても晴之丞にとっては、おいそれと足を踏み入れることのできる界隈ではない。
「今日の目的は、それではないだろう」
「松江に帰る気は、ないのか。脱藩に対するお咎めは、全くないとゆうわけにはいかん。といっても、せいぜい三十日間の謹慎で済むらしい。日本国中が飢饉にあえいでいる折であるが、わが松江藩は、産業奨励による藩政改革で積立金があり、備蓄米がまだ十分に残されておって、今のところ、さほどの影響は受けておらん。備えあれば憂いなし、だな。だがぁ、領民の生活状況を精査しながら対処できる、事務方が不足しておる・・・それにぃ・・・祖母様からの言伝てだがぁ・・・え(きれいな)嫁御決めたけん、はよ戻ってごせ。あこ(赤ん坊)、早こと抱きてぇ、と」
「なんと!・・・嫁? だとおぅ」
晴之丞は立ち上がって、晋作を睨みつけた。
「いつまでもここで、ひとり暮らしという訳にもいかんだろう。それとも何か、ここにおって、やりたいことでもあるとゆうのか、お主。早く帰って、心配かけてる祖母様に、孝行せいっ。立志、あるならば話は別だが」