大坂暮らし日月抄
お国の事情
暖簾の端をわずかにまくり上げて覗き込んでから、はらりと手を離すと、溜息をついて再び歩き始めた。のろのろと町内を一周してから同じ店の前に立ち止まると、腰を低くして開いている玄関の内を覗き込もうとしたところで、目の前が急に塞がれた。
顔を仰向けると暖簾が左右に開かれて、
「どうぞお入りください」
と、その店主らしき男が顎を振ったのである。
口を開けて店主を見上げた。先程から帳場の格子内にあったのは、この男だったのか。自分のうかつさに頬をゆるめた。というのは、主(あるじ)が席を立っている間は、信楽焼の狸を店番代わりに置いているのであろう、と勝手に思い込んでいたからである。
店内が薄暗いせいもあったかもしれないが。
「口入屋九兵衛の、主であろうか」
暖簾の横に掲げられている、木札に書かれていた名前だ。
小走りに座敷を上がり格子の内側に陣取ると、上目遣いで、身体ごと狸に似た男が言った。
「左様でございます。さいぜんから何べんも覗いてはりましたけど、ご用がおありでしたら気兼ねせんと、入ってくれはったらよろしかったのに。あなた様は?」
小さなメガネが鼻の上に乗っかっていた。
「えぇ〜とだな、そのぅ」
「お名前をお聞かせ下さいな」
「栗尾晴之丞、と申すのだが」
「はるは春夏の春で?」
「雨晴の晴と書いて、はる、だ」
「手形はお持ちで? それともぉ」
筆と帳面を置いて、またまた上目になった。
「口入屋稼業はやくざまがいの商売してる、てなことをよう言われるんですけどね、家(うち)は真っ当な筋の商いをしてますんで、身元を確認さしてもろてます。保証してくれはるお方がいてはったら、それでよろしいんでおますけど。まさかあんさん、脱藩なさって来られた? それともぉご浪人?」
風体を見て言っているのであろうか。鋭い男だ。大坂の商人は皆きついと、最近はとみに感じている。核心を、やんわりと、突いてくる。
「ま、それに近いのではあるが・・・そうだっ、松江藩蔵屋敷に詰めておる、平野晋作に当たってみてくれ。ただし、周囲には気づかれぬようくれぐれも」
「分かりました。余程の訳がおありやとは、店の前をうろついておられる時から感じとりました。でもねぇ、お侍さんに務まる仕事が、ねぇ」
九兵衛は、机の下から分厚い帳面を引き出すと、指を唾で湿らせて頁を繰り出した。
「そうでんなぁ」と言いながら何枚かめくっていたが、
「ちょっと前までやったらお侍さま向けの、そぅ、用心棒といった仕事もあったんでございますけど、そうでんなぁ・・・力仕事、ちゅうんはいかがで? 今んとこは、それしかおませんのです、はい」
と言う。目の下が少し緩んでいる。
栗尾晴之丞は、試されているのを感じた。だが今は、日々の糧を得ることが第一であった。
「構わぬ。紹介してもらえるか」
「そうですねぇ、この前の大雨で崩れた大和川の普請。堂島で荷上げ人足・・・時期的に、米が次々に運び込まれてきますんでね」
「堂島はちょっと」
「それではぁ、天満はいかがです? 青物市場が賑やかなとこですけど、今は最盛期でね、猫の手も借りたい」
「そうだな。だが、商売は出来ぬぞ。経験がない」
「ご心配には及びまへん。舟からの荷降ろしでございますよって。それではぁ」
帳面から顔を上げて、再びじろりと睨みつけた。
「お住まいは、どちらで?」
「京町堀二丁メ、源兵衛の裏長屋だ」
「ああ、存じております。あっこでしたら身元も確かなんでございましょうなぁ。では紹介状を差し上げますんで、もうしばらくお待ちくださいませ。早速、明日からでもよろしおますでしょうかな。先様には、手前どもの方から伝えておきます」