ゼロ´
服
人の筋肉や血管、関節の微細なフォルムを抽象化して、服は生まれた。服はほかにも着ている人の性格を抽象化する。気分を抽象化する。家族関係を抽象化する。ついでに着ている人の恋人まで抽象化してしまう。服はとても貪欲だ。
電車から降りると服の中にまで寒さが入り込んできた。肌と服とのあいだには小さな距離があり、体の部分部分でその距離が様々に異なっている。今、右大腿部前面中央、膝から上に9.5?のところの皮膚被服間距離が2.3?になった。
服は吊るし上げられているのか、展示されているのか。服は人の体を包み込んでいるのか、人の体に支えられているのか。服は柔軟に体の動きに合わせているのか、体に変形を強いられているのか。下着は上着を着ているのか、ただ人に着られているのか。
美しい人に宛てた手紙を出さないまま捨てた。そのとき僕は服を着ていた。最も古い記憶の中で僕は畑に祖父を見ていた。そのとき僕は服を着ていた。いつの間にか雪が降っていて、その複雑な舞が過剰に思えた。そのとき僕は服を着ていた。
どんな服だって昔は何も知らない布だった。とびきり美しい服になれると信じていた。だが裁断され縫われていくうちに、次第に現実の厳しさを知るようになる。服はグレそうになりながらも立ち直る。そして完成した服としてありのままの自分が愛せるようになる。
服を着るとき、服の文法に従う。服を脱ぐとき、服のイントネーションに気をつける。服屋には、服の辞書がある。服を着て街を歩けば、服は自ずと朗読される。洋服ダンスをあけると服が一行の文となって並んでいて、服の配列の意外性が楽しめる。