出雲古謡 ~少年王と小人神~ 第二章 「因幡の白兎」
曳田の長の御館は、川の土手の上に建てられている。その富や勢威を表わすなかなかに豪奢な造りの物であったが、夜ともなると皆寝静まり、星明かりの下、虫達だけが密やかにその音を川原に響き渡らせていた。
--だが、そんな静寂の中で。少々、様子の違う一角があった。
御館の敷地の一棟に用意された、客人用の一室。その室から、いつまでも灯が漏れている。中からは、ぼそぼそとした話し声がひっきりなしに聞こえてきた。
「まさか、こんなことになるなんて……」
絞りだすように呻き、一彦は頭を抱えた。
円座になった弟達は、皆一様に渋面で黙りこくっている。--もっとも、「弟達」とはいっても、この客人用の室に入ったのは、一彦から八彦までの杵築郷の同母八兄弟のみである。
「従者」として遅れて到着した志貴彦は、兄達の指示により、敷地の外れにある倉庫の片隅で寝泊まりさせられていた。
「だが、兄上。それが、八上姫のお心ならば……」
沈黙を破った二彦の言葉は、最後まで言い終わらぬうちに弟の怒声によって遮られた。
「それで済むかっ。事は、ただの妻問いだけでは終わらぬのだぞ!」
叫んだ三彦は、興奮のあまり顔を真赤に上気させていた。
薄明かりの中で顔をつきあわせた、八人の同母兄弟。ある者は沈痛な面持ちで、またある者は憮然とした表情で、腕を組み、頭をかく。
彼らの脳裏には、一様に夕べの「悪夢のような」出来事が浮かんでいた。
……今日の昼過ぎに曳田に到着した一行は、長の一族から盛大な歓迎を受けた。
夕の宴がすんだ後、八兄弟は待望の八上姫とひき会わされた。もっとも、直接八上姫の顔を拝めたわけではない。姫は御簾の奥深くに座し、杵築の兄弟達の前に姿を現わすことはなかった。
御簾の前に並んだ兄弟達は、それぞれ姫に贈り物をし、妻問いの言葉を述べた。
この八人の中の誰かが、夫として選ばれる--緊張する男達の前で、姫は静かに告げた。
『……わたくしは、あなた達の誰の妻にもなりません。わたくしの夫となるのは、八束志貴彦様です』……
「……志貴彦など、まだ十二の子供ではないか。『男』と呼ぶにも早い。確かに、我らの兄弟の一人ではあるが、何故姫はあんな奴を選ばれるのか」
四彦は頭をひねりながら不思議そうに呟いた。
「ふん。八上姫は、より年若い男をお好みなのだ。そういうご趣味なのだろうよ」
四彦の隣に座った五彦が、嘲るように吐き捨てた。
「--でも、兄さん達。変じゃないか? 志貴彦は、従者として俺達についてきたんだ。
俺達は志貴彦を兄弟として曳田の人々に紹介することはなかったし、ましてあいつが姫の前に出ることもなかった。なのに、何故姫は志貴彦の奴を知っていたんだろう?」
六彦が言うと、しばらく考えてから七彦が答えた。
「まあ、志貴彦だって、一応は里長の子だからな。何か、噂が曳田まで届いていたんじゃないか? それで、姫のお考えがあって……」
「どんな噂だよ!?」
三彦が凄む。
「いや、そこまではわからないよ。あくまで、推測でしかないんだから……」
兄に睨まれて、七彦は口ごもった。
「……だが……このままでは、志貴彦が次の長ということになる」
酒の入った土器を下に置き、一彦はゆっくりと言った。
「兄上!」
「兄さんっ」
弟達が一斉に色めき立つ。
「そういうことになるだろう? それが、父上との約束だったはずだ」
七人の弟を見据え、一彦は重々しく呟く。
兄弟達は、皆言葉もなくうなだれた。
出雲は、豊葦原の中でも比較的大きくて豊かな国である。国内では幾つもの有力な豪族が勢力を競い合い、出雲国の覇権を握ろうと躍起になっている。
杵築も、そんな有力な豪族の一つであった。
領地も広いし、人口も多い。何よりも、領内に海を持っているのは、大きな強みだ。
だがしかし、似たような条件の豪族達の中から、更に抜きんでてみせるには、もっと力強い何かが必要である。そこで、兄弟の父である杵築の長が考えたのが、他国の有力豪族との結びつきであった。
曳田は、因幡国で一、二を争う有力豪族である。その惣領姫を娶るということは、即ち曳田豪族の勢力を味方につける、ということになる。
旅に出る前、父親は、八兄弟に言った。
見事八上姫を射止め、曳田の力を得た者を、杵築の次の長にする、と。
恋と野心。人生で最も重要なこの二つの要素が、八兄弟を旅へと駆り立てた。
だが--。
「父上にとっては、志貴彦も我が子の一人には変わりない。杵築の兄弟の中の誰かが、八上姫を得れば、それでよいのだから。きっと、長を譲られるさ」
酒の入った土器を指で揺らしながら、一彦は淡々と呟いた。
「納得できるのか!? それで、兄上はっ!」
叫びかけた三彦は、即座に一彦に睨みつけられ、はっと口をつぐんだ。
「納得? 納得など……できるものか」
一彦の目に不穏な光が浮かぶ。
「考えていたんだ。ずっと……。どうすれば、いいのか」
一彦の口元が無気味に歪んだ。弟達は、息をのんで長兄を見つめる。
「もう限界だ。あいつがこれ以上存在していては、はっきりと我らの害になる。いいか、お前達。幸いな事に、ここは旅先だ。誰にも知られぬうちに、志貴彦を……」
どの集落にとっても、秋は大事な収穫の季節である。山で大量に採れた栗・胡桃・ドングリなどは、それぞれ土器に入れられ、冬に備えて高床倉庫にしまわれる。
御館の敷地の外れに建てられた、倉。その中にうずたかく積まれた大量のドングリの片隅で、志貴彦は安らかに寝息をたてていた。
志貴彦が曳田に着いたのは、夕方を過ぎてからだった。御館の中では、先に到着した兄達が何やら賑やかに宴を催していたが、志貴彦には関係のないことだった。
夕食用に貰った鮭の干物を食べ終わると、志貴彦は眠くなってきた。いい加減、長旅で疲れていたのだ。特にすることもなかったので、志貴彦は素直に眠る事に決め、倉庫の床の上で横になった。
……どれくらい、眠っただろうか。
ふと、「眩しさ」を感じて、志貴彦は目を覚ました。
(……何? もう、朝になったのかな)
目をこすりながら、志貴彦は身を起こした。
「少彦名ぁ。朝みたいだよう」
傍らで眠る小人の身体をゆすりながら、志貴彦は片手で伸びをする。その時、彼は何かが「おかしい」のに気がついた。
「……なに……もう、朝じゃと……」
少彦名が、ねぼけた声で呟く。
「いや……違う……みたいだ……」
眼前に浮かぶ「物」を凝視しながら、志貴彦は緊張した声で答えた。
倉庫の中は、まだ暗い。恐らく、夜明けには未だ遠いのだろう。なのに、何故志貴彦の周囲だけが明るいかというと--。
志貴彦の前に、「光る布」が浮いているのである。
『……よう。起きたかい、八束志貴彦』
「ぎゃあっ」
突如布に話かけられ、志貴彦と少彦名は同時に後ずさった。
『……随分と驚いてくれるな。脅かしがいがあるってもんだ』
布は、楽しそうにくつくつと笑い声を漏らす。その声は、まだ若い少年のものに似ていた。
「お主……いったい、誰じゃ?」
笑われた事で、逆に冷静になった少彦名が訝しみながら言った。
作品名:出雲古謡 ~少年王と小人神~ 第二章 「因幡の白兎」 作家名:さくら