雨の日の声1
「ふうん。じゃあ、自己紹介はいらないかな」
「明智、だろ? 下の名前はなんて読むの?」
「ホマレ。あ、そうだ。食べ終わったら成績表見せてくれる?」
「うん」
「どうも」
わずかに誉は笑ったようだった。
しかし彼も俺の成績表を見て絶句した。誉の後輩どころか三流大学でも危ういくらいだ。志望校を変えるか進路を変更したほうがよっぽど現実的な数字だろうに、彼は口角を引き上げた。
「今、高二の三学期だよね」
「もうじき春休み」
「じゃあ、これからちょっと頑張って貰おうかな」
そう言って成績表を俺に返した。ぎしぎしと動く身体だった。ベッドに座ったまま視線を合わせて、目の奥を覗き込むように首をかしげた。
俺はちょっと呆れられたり馬鹿にされると思っていた。
誉の大学は正直名前を知っている程度だったし、行きたい所でもなかった。大学がどれも同じに見えたので、口から出任せだった。そこを目指して頑張ればいれば、地方の国立くらいなら行けるんじゃないかと思っていた。
「俺も、頑張るよ」
驚いたのは、そう言った誉の茶色い目のほうがよっぽど真剣だったからだ。
真面目な男なんだろうとそのときは思った。
まったくそんなことはないと思い直したのはそれからすぐで、誉が真剣だった理由は俺の祖父に惚れたからだと気づいたのはもう少し後になる。
家庭教師になったのも、元いたアパートを引き払って段ボールふたつであの家に来たのも、夜遅くまで起きていたのも、祖父の仕事を手伝い始めたのも、全部、祖父とつながりが欲しかったからだ。
半世紀分も自分より年上の同性に惚れる気持ちが俺にはわからない。
次の日には学校に置きっぱなしにしていた教科書を全部持って帰ってきた。開けた事さえ滅多にないペンケースに誉は自分のラインマーカーとボールペンを入れた。
「現役合格生のペンは縁起がいいと思うよ」
慣れない勉強にやる前から嫌気がさしていたのを見抜いたようにマーカーの後ろで額をつつかれた。
この「先生」の教え方は丁寧だった。聞き取りにくかった声は徐々に明朗になり、案外いい声をしていると気がついた。苛立つ事も波立つ事もなく、俺に二次関数から教えてくれた。
応用問題を解いた時、誉は軽く肩を叩く。手はいつも温かだった。子ども扱いしやがると思ったが悪い気はしなかった。なかなか信じて貰えないけれどこれでも根は素直なんだ。
寝入りばなに思い出すのは誉の声だった。水を飲むようにあの声を覚えていた。一言一句、助詞の前に少し間を置く癖、言葉の端々にかすか、東京生まれじゃない訛りがあった。空気の綺麗な所で育ったのだろうと思っていた。四季の厳しさがここよりも少し穏やかな街だろう。
物覚えがいいと誉は言ってくれた事がある。俺が覚えていたのは古典の活用や英単語や公式じゃなくて、明智誉の声と抑揚、息の使い方、唇の動き、舌先、喉の振動、ころりと白い歯のエナメルなんかだった。
覚えていたのは勉強をしているからだろうと思っていた。
覚えていたのは誉だった事に気がついたのは手遅れになってからだ。
木の芽が柔らかくなっていくのと同じ速度で誉の傷は治っていった。ミイラ男みたいだったのがタマネギの葉を剥いていく時みたいに、するすると生の肌色を取り戻していく。
変色していた肌も切れていた唇も目蓋も治っていった。学年末試験の勉強を始める頃には目の覚めるような人になった。顔ばかり妙に殴られていたのもわかる気がする。
包帯の下から表情が見えるようになった。俺と年が変わらなく見えるくらいに童顔だった。割に表情がこなれていたのが不釣り合いで、おかしなバランスだった。
学年末試験の結果を持って帰った時は、一瞬小学生みたいに目を丸くして、爆ぜるように笑った。
「頑張ったじゃん!」
じゃん、ってなんだ。
息が詰まるくらい顔も頭もめちゃくちゃに撫でられた。引きはがそうとしたら手加減知らずに押し倒された。勉強部屋になっていた誉の部屋のフローリングに頭をうちつけた。
「いってえな! 馬鹿になんだろ離せよ!」
「これ以上馬鹿になんかなるもんか!」
誉はよく笑うけれど、声をたてて「弾けた」のを見たのはこれが初めてだった。よく見たかった。押し倒したあげく馬乗りになってまだけらけらと犬でも撫でるようにされるのが鬱陶しかった。その手の隙間からしかくしゃくしゃに笑った顔が見られない。
降り注ぐのが声と体温とまるきり子どもみたいにはしゃいだ気配だけだ。
飲むにはまだきつすぎる酒みたいに、芳醇だけ伝えて飲み込めない。
邪魔な指の間からかいま見た笑う顔が強いフラッシュをたいてとった写真のように記憶できた。
なんかガキだと捉えた反面、心臓を直に叩かれた。心臓からつま先にまで血が行き渡るまで0.7秒だ。その血が熱いと体中が知るのはもっと速い。
そのとき初めて目を開けた生き物みたいだった。
明智誉を記憶していた理由を知らしめられた。見ていたくなる。記憶したくなる。噛みつきたくなる。
腕を伸ばした。まだ全部治ってないのに! って言うとっくみあいも喧嘩もてんで弱い鈍くさい奴に仕返しするのなんて簡単だった。その割に意地っ張りの負けず嫌いを身体の下でじたばたさせるのなんて訳ない。
「降参?」
見下ろして今度は俺が笑ってやった。
ナイフでもひらめくみたいに誉が視線をくれる。半分眠ったみたいな普段と同じ男だとは思えない。はしゃいで赤い顔でゆっくり唇を半円に歪ませた。歯が見えた。茶色い目が近づいた。目一杯首を伸ばして顔を近づけて、俺じゃなくて俺の耳に言う。
「やぁだ、よ」
ふざけた子どもっぽい口調に鼓膜から身体が焼けた。
思わずぶん殴りそうになって、また痣を増やしてしまうと思い直す。かわりに掴んだ手首に力が入った。誉が顔をしかめる。
ようやくやりすぎだと気がつく。指から力が抜けた一瞬後、視界がもう一度一回転した。後頭部が痛い。
「またかよ!」
「降参?」
口まねに乗るのは腹が立つ。お互い力の加減を間違えたりしないように、でも相手よりちょっと優位に立てるように、ハイテンションのとっくみあいが続いた。
「なにじゃれてんだよ」
夜になるまえ帰宅した祖父が訝しんでドアを開けるまで、息があがっても、犬の子みたいなじゃれ合いが続いた。一人っ子だったからこんなのしたことがなかった。一人っ子にじゃれあいの相手ができたって二人きりになるだけだ。
「おかえり!」
俺はまだ笑ったまま、誉も同じような顔でぐっしゃぐしゃになった頭で立ち上がった。
「見てよこれ」
誉が俺の成績表を祖父に見せた。
祖父は一度瞬きをしたあと、強い視線をひゅるりとくれた。はたかれるような強さがぎらんと輝いて祖父は口角を引き上げた。
この目ひとつで充分だった。
ほめる時は手より言葉より、唇の形と目の色の奥の光ってそれだけですむ男だった。
その祖父の顔を誉がまばたきもせずに見上げていた事を俺はまだ知らなかった。