小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
万丈(青猫屋玉)
万丈(青猫屋玉)
novelistID. 5777
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

雨の日の声1

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 

 
 あの歓楽街にいた日本人の顔役といえば俺の祖父が最後の一人だった。
 今はすっかり外資系で占められて、日本人もいるにはいるが昔みたいな勢いはない。そんなことをおおっぴらに言えば怖い顔のおじさんたちが黙っていないのでこちらは沈黙が金だ。
 とはいえ、祖父の頃はまだ、そう、十年ほど前は確かにあの街にも「裏の顔」と呼んで差し支えない男がいたものだ。
 思い出話を少しする。俺は高校生で、祖父は七十になったばかり、そして俺の家庭教師がまだ大学生だった頃の話だ。
 あの年の初春、まだ雪のちらつく日もある寒い春だった。深夜に帰宅した祖父は若い衆に担ぎ上げられた男を一人持ち帰ってきた。
 男を担いできたのは祖父が成政と呼んでいる大きな人だ。祖父も年の割に大きな人だったが、祖父よりさらに二回りも大きく、マンションに入ってきた時はいつも窮屈そうだった。
 成政さんは男を抱えて風呂場に行った。
「生きてんの?」
 俺は祖父のツイードのジャケットをハンガーに掛けながら問うた。祖父は指輪の嵌った手でごつんと額をぶった。
「男の死体がなんの役に立つんだ。滅多な事言いやがって」
「いてーなくそじじい」
「減らず口叩いてる暇があったらさっさと寝な」
 子守歌が無いと寝れねえか、祖父は唇を半月刀の形に歪ませる。
 さらに憎まれ口を返す前に風呂場から成政さんの胴間声が聞こえた。洗い終わったがどうするのかと聞いている。祖父は空き部屋に置けと答えた。水気を切れと言い足した。
「坊、寝る前に救急箱だけ出しといてくれ」
 家の中は俺が好きなように掃除してしまうので、祖父は自分の箸もどこにしまってあるのか知らないのだ。
 俺は納戸から鞄を出して客間へ向かう祖父の後を追う。客間の前で振り返り、鞄だけ持って中に入ろうとする祖父の横をすり抜けた。
「あんた手当下手でしょ」
 そう言って客間に入り、ローベッドの上に寝ている男を見た途端、俺はちょっと後悔した。
 腹から胸元までの火傷、体中の痣と擦過傷、腫れた顔、切れた目蓋と唇、多分背中も無事ではない。じくじくと湿った傷はベッドを汚しているだろう。
 汚いと文句を言いながら祖父と二時間かけて男の手当をした。
 寝なくていいのかと祖父が言ったが、明日は日曜日だと答えて作業を続けた。
 命に関わる傷が無いこと、ぎすぎすにやせている事、傷のない皮膚がつるりとしていること、まだ二十歳前後だろう事がわかった。
 あらかたの手当を終えると祖父は男のものらしいバッグをひっくり返した。ノートが何冊か、俺の読めない参考書が二冊、赤と黒の二色ボールペンが一本で、所持金は数千円だ。
 財布の中からは他にも都内の国立大学の学生証が出てきた。この大学の学生をこんな所で見るとは思わなかった。
 生意気、と祖父は呟いた。俺も同感だ。成績はいいらしいが、祖父にテイクアウトされている所をみれば頭のほうは良くないらしい。
 手当が終わった。明智誉って言うんだってさ、と祖父が言う。男の名前を知った。大仰な名前だと思った。
「お前、こいつに勉強でも教わるか」
「やだよ」
「学校から俺に出頭命令が来たぞ。このままじゃ進級が危ういとさ」
 中退してもよかった。このまま祖父の仕事を手伝うのだろうと漠然と思っていた。
 ただ、祖父が俺を普通の社会人にしたがっているのも知っていた。祖父は多分、あのときの俺よりも沢山の事を見聞きしていた。戦後からこっち、ずっと長い間「裏」にいたじいさんは、孫を同じ稼業に付けたいとは思えなかったのだろう。
 祖父がなにかにと工面して手に入れた高層マンションの部屋は祖父の縄張りを一望する。ゴミ箱をひっくり返したような街も、高いところから眺めるとネオンサインが宝物に見える。
 祖父は遺言状にこの部屋の権利を俺に譲渡することを明記している。父親のわからない子どもを産んだ母親はその子が物心つく前に失踪している。身内らしい身内は、お互いに相手だけだった。
 祖父は多分、欲しいと言えば大概のものをくれたと思う。どつかれて罵られてはいたけれど、自分が庇護されて溺愛されていない事がわからない程俺は子どもではなかった。
 祖父が俺に与えてくれないいくつかのものには、このネオンサインが含まれているような気がした。
「俺、勉強嫌いなんだ」
「知ってるよ。勉強好きが真っ赤な成績表を持って帰ってくるもんか」
「頭悪いよ、俺」
「一度も真面目にやったことのないもんで良い成績が出るわけねえだろ」
「あんたは俺をカタギにしたいの?」
「なれるもんならなってみろ」
「なれねえよ」
「なりたくないのか?」
 祖父は答えない俺にため息をついて男の持ち物を鞄に戻した。
 ネオンサインは丑三つ時に向けて勢いをなくし始めている。昔は誰も歓楽街で終電を気にしなかったのが、今はどこも十二時を過ぎると閑古鳥なんだそうだ。
 高校生じゃ、この街を賑やかしに行く事もできない。万一こんな所で補導されて祖父を警察署へ迎えに来させるわけにもいかない。
 俺は手当の具合を確認し、道具を鞄に入れ直す。
「俺がもし大学行きたいって言ったら、学費出してくれる?」
「出世払いでつけとくぜ」
「そりゃいいね」
 ベッドに眠る男が裸では見苦しい。毛布をかけてやり、その顔を覗き込む。包帯だらけ、傷だらけ、茶色い頭の兄ちゃんだ。本当に成績はいいんだろうかと疑いたくなるていたらくだ。
 それでも俺は怖かったのだと思う。祖父の意向を無視して歓楽街に入る事も、凡庸と駅舎に飲み込まれてはき出されていく灰色の勤め人の群れも、どちらも選ぶ事が恐ろしかった。
 祖父の背中は昔と変わらず大きい。俺よりも上背がある分厚い身体で、高校生の俺でも寄りかかれるような気がしていた。
 同時に、その背に老いを感じないではなかった。
「1回ちゃんと勉強してみる。それから決める」
「言ったな」
「言った」
「三学期もまた俺を学校に行かせたら追い出すぞ」
「期待してていいよ、どっちみちあんたの老後は安泰だ」
「馬鹿、俺ァもうとっくに老後だよ」
 そう言ってにやりと笑えば当時でも女が騒いだと思う。男には兎に角嫌われるが、女と孫と犬と若い衆はころりと参らせてしまう人だったと思う。
 
 
 
 
 
 
 祖父の拾ってきた男が俺の家庭教師になることを承諾した。
「佐野さんに潰された店の元店員なんて他でバイト探せないからね」
 佐野、は俺たちの名字だ。包帯だの湿布だのにまみれた男の声は穏やかだが頬が腫れているので聞き取りにくい。
「深夜のバーテンより時給落ちるんじゃない?」
「バーテン知ってたんだ」
「じじいが言ってた」
「そう。時給落ちるのは、居候する分でチャラかな」
「なにあんたここに住むの」
「どうぞよろしく」
 俺と祖父だけだった生活に人が加わるのは初めての事だった。
 傷だらけの家庭教師はやっとベッドに起き上がって俺の作ったメシを食っている。浅い春の光が部屋に入って、男の茶色い髪を透かせていた。
「受験勉強だってきいてるけど、どこの大学に行きたいの?」
 しゃべり方もゆっくりだけど、リゾットを食うスプーンもゆっくりだ。
「あんたの後輩になりたい」
「俺と同じ大学? それもおじいさんが教えたの?」
「学生証見た」
作品名:雨の日の声1 作家名:万丈(青猫屋玉)