浮気
「疲れているんだ。ホテルで休もう」
「ホテルはどこ?」
「川の傍さ」
二人は劇場を出て、タクシーに乗って、ホテルに入った。
ホテルはこじんまりして、どこかアンテークめいている白いホテルである。ホテルのロビーはブロペラ型の形をした扇風機が天井にぶら下がっている。
「素敵なホテルね」
「ここは穴場なんだ」
「日本のサラリーマンは泊まらない」
チェックインを終えると、二人は部屋に案内された。
「いい部屋ね」
「高い部屋だからな」
「河が見えるわ」
「チャオプラヤー川と言うんだ」
「ふーん」
後ろから抱き締めた。詩織は戯れの悲鳴を上げた。
「だめよ」とたしなめた。
「まだ明るいわ」
「ヨーロッバじゃ、男と女の愛に夜も昼もない」
「仮にそうだとしても、私は動物みたいに昼も夜も見境なく愛し合うことはできない」と詩織は笑った。
「冗談だよ」と隆夫は離れた。
「知っていたわ」と詩織は窓を背にして立った。
「先生は奥様を愛しているでしょう?」
「……どうしてそんなことを聞く?」
隆夫と妻の関係はとっくに冷めている。別れなかったのは、ただ単に世間体のためだけである。しかし、そのことは誰にも言っていない。
「その方が良いの……」と言って、詩織は窓の外を見た。ドイツ車が玄関に横付けになった。
「遊びだと言うのか?」
「そうかも。でも、人と人の巡り合いは一期一会でしょう?」
「うまい表現だ」
「そうでしょう。外、歩いてみましょうか?」
「まだ暑いよ」
「暑いのは好きよ」
「君の目は氷のように冷やかに見えるけれどね」
「私の血の中にスカンジナビア人の血が流れているせいかしら?」
「ビールでも飲む?」
詩織は冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注いだ。
「乾杯でもしましょうか?」
「二人の愛のために?」
詩織は笑った。
「何がおかしい?」
「だって、日本人にはそんな歯の浮くような言葉はなかなか出ないもの」
「君は日本に住んで何年になる?」
「八年よ」
「君は自分を日本人と思っているかね?」
詩織は首を振った。
「そうか……それにしては日本語がうまいな」
隆夫はビールを一気に飲み干すと溜め息をついた。
ビール瓶を二本開けると夕暮れになった。
二人はホテルを出で、チャオプラヤー川の河口まで歩き、夕日に染まるバンコクを観た。
「バンコクは東京よりも、ダイナミックな街で、古いものと超近代とが渾然として溶け込んでいる。タイのあらゆるものが、人も、物も、芥も、全てのものが母なる、このメナムを通りバンコクに集中するんだ」
「メナムって」
「メナムのメーは、母を意味し、ナムは水だ。そして、タイ人は全ての河をメナムと呼ぶんだ。さあ、こっちを観て。あんまり笑わないほうがいい」
タイに来て、隆夫はどれほどカメラのシャッターを押したことだろう。大都会バンコクの雑踏のなかで振り向く詩織、降り注ぐ亜熱帯の雨のなかで子猫のような顔した詩織‥‥
「明日はスコータイに行こう」
「スコータイって」
「タイ文明発祥の地さ」
詩織は微笑んだ。
突然、雨が降ってきた。スコールだ。
「帰りましょう」と言って詩織は隆夫の手をとった。
隆夫は既に詩織との別れのことを考えていた。これが本気でなく単なる浮気として終わらせるための別れの場面をあれこれと考えていたのである。既に自分の中で恋の嵐が去っていこうとしているのを予感したのである。 しかし、詩織の方は最初から本気ではなかった。