浮気
『浮気』
夕日が沈もうとしている。
隆夫は水割りを作り、窓辺の椅子に腰をおろした。
「綺麗、海が黄金色に輝いている」
いつの間にか、詩織は窓ガラスに寄っている。
「眼が覚めたのか?」と隆夫が聞くと、
詩織は「たった今」と答えた。
「夕日がとても綺麗、だけどあっという間に消える。そのせいかしら、悲しい気分になるのは」
「美とは、はかない宿命を持っているんだ。だから逆に、美といえるんだ。でも、君の方がもっと綺麗だ」
隆夫はいつしか詩織の豊かな胸に手を当てていた。詩織はその手を振り払おうとはなかった。
「先生、そういって女を泣かしてきたんでしょう」
詩織の瞳を見た。すると、詩織は眼をゆるやかに閉じた。隆夫はくちづけた。甘美な衝撃が詩織の体を貫いた。隆夫は青年のように荒々しく抱きしめてベッドに押し倒した。
「先生、痛い」と詩織は甘ったるい声で呟いた。
「ごめん」
詩織がくすっと笑った。
「何がおかしい?」
「だって子供みたいなんですもの」
「この」とって言って、また詩織を抱き締めた。詩織は、その指、その息、その体に隆夫の激情を感じていた。女にはない荒々しい激情は、詩織を酔わせた。それは、ちょうど大波に弄ばれる小舟に似ている。処女なら恐ろしさに震えたかもしれないが、詩織は既に処女ではなかった。むしろ詩織はその大きな波を積極的に受け入れようとした。
隆夫は詩織を抱き、二つの体は一つになった。しばらくして二つの体が離れた。隆夫は彼女の顔をのぞき込んだ。
「君はとてもきれいな目をしている。まるで子猫のような美しい目をしている。でも、なんだか、ずっと見ていてはいけないような気がする」
「だったら、お止めなさい」と詩織は微笑んだ。しかし、隆夫は止めなかった。
「とてつもなく透明で際限のない井戸の底を覗き込んでいる気がする。ちょうど、宇宙の遙か彼方に輝く星を観ているようだ。もっと近づいて、もっと知りたい。君は今までどこにいて、何をしていたのか?」
「答えたくないわ」と微笑んで背を向ける。
「こっちを向きなさい」と隆夫は詩織の背中を軽くなぞる。「くすぐったい」と言って詩織は振り向く。見つめられた隆夫は意外にも真面目な顔していた。
「今度はタイで行くんだ」と隆夫は言った。
「どうして?」と詩織は微笑む。
「君の笑顔を観ていて、ふとタイに行きたくなったからだ。タイは不思議な国だ。日本と同じ東洋なのに、同じようで同じでない。そして、あの国は日本以上に混沌としている。まるで泥の沼に咲いた蓮の国だ。とても不思議な国だ。君も一緒に行こう」
「厭と言ったら?」
「別にかまわないさ」
「じゃ、私も行くわ」と詩織は答えた。
詩織は、いつしか微かに寝息をたてて眠る隆夫の傍らで、自問した『隆夫に惚れたのであろうか? それとも打算あって隆夫と寝たのであろうが』と。だが、人の心とは微妙なもので、それは刻々と変化する。ときとして、考えれば考えるほど分からなくなることがある。詩織も考えすぎて、逆に迷宮に中に迷い込んでしまった。しかし、彼女の良いところは、どんなことでも簡単に止めることができることだった。そのときも考えるのを止めた。すると、直ぐに眠りについた。
一週間後、雨がしめっぽく降る五月のある朝、二人を乗せた飛行機が成田を飛び立った。
飛行機は果てしなく続く雲海を越えた。そこは青の空間、無限大に広がる宇宙の闇に連なる世界である。
「神様になったみたい」と上機嫌に詩織が囁いた。
「飛行機は初めてかい?」
「初めてじゃないけど、久しぶりよ。でも、いつも初めて乗るときと同じくらいワクワクする」と子供みたいに窓の外をのぞきこむ。しばらくして、詩織が話かけようとして隆夫の方を振り返ると、隆夫は眠っていた。夢を見ていた。旅仕度をしているときの夢だった。 ――旅支度をしている傍らに妻がいる。妻が背を向け泣いている。すまないと思い慰めようにとして、肩を抱くと、妻が振り返った。その顔に驚き目覚める。到底、人間の顔とは思えなかったからである。その顔に見覚えがあった。確か、バリ島の画家の絵に出てきたような奇怪な鬼のような顔である。――
隆夫は目覚めると同時に軽い悲鳴を上げた。
「先生、どうしたの?」
「何でもない」
「悪い夢を見たのね」と言って詩織がハンドバックからハンカチを取り出し、その顔を拭いてくれた。
隆夫が窓の外を見ると、飛行機はまだ空高く飛んでいた。
「今は何時だ?」
「まだ六時よ」
「そうか」
「何を読んでいる?」
「アルベーユ・カミュよ」
「カミュは嫌いだな」
「あら、どうして?」
「彼の作品は皮肉に満ちている。それに若さというのもない。希望とか、夢とかいった甘ったるいものがちっともない。まるでインドカレーのような作家だ。日本人の口には合わないよ。まあ、君はいろんな血が混ざっているからいいかもしれない」
「でも、優れた洞察力を持つ偉大な作家よ」
「そうかな?」
突然、詩織は小声で笑い出した。
「何がおかしい?」
「だって、先生ったら、子供みたいにふくれるんだもの」
隆夫は、美しい女の多くを彼は単なる美しいだけで、頭の中はピーマンみたいに空っぽと信じていた。だが、詩織はそうではなかった。
「また眠るよ」と隆夫は言った。
「私ももう少ししたら眠るわ」
バンコクに着いたのは、お昼過ぎであった。二人はバンコクの町中を散策した。行き交う人の多さに驚いた。東京の混雑とさほど変わらないほど混んでいた。
「どこにも、チャイニーズはいるな、まるでゴキブリみたいだ」と彼は呟いた。
「そんな大きな声でいうと聞こえるわよ」と詩織は彼の耳元で囁いた。
「かまわさんさ。彼らには、日本語なんか分かるまい。それに僕は彼らを侮蔑しているわけじゃない。寧ろ感嘆しているんだ。何しろ世界の四分の一の人口は中国系だ。その繁殖力に感嘆しているんだ。それに東南アジアの経済の主導権を握っているのは彼らだからね」
「先生は意外と物知りね」
「褒めているのか? それとも貶しているか?」
「もちろん貶すわけはないでしょう。これからどうするの?」
「まず、美味しい食事をして、それからタイ舞踊でも見ようか」
彼らはタイ料理で有名な店に入った。一時間後、食事を終えると、タクシーを拾った。十五分ほどで劇場に着き入った。
「ここはね民族舞踊を見せてくれるところなんだ」と隣に坐る詩織に囁いた。
「西洋暮らしの長い君には分かるまいが、東洋人は皆、何か通じるものがある。これは個人的な解釈だか、タイの舞踊も日本の能も似ている。ともにその根底に仏教の精神がある」
「不思議な踊りね。でも私に良く理解できないわ」
隆夫は創作に行き詰まると、独りでぶらりと旅に出る。張り詰めた意識を和らげるためである。三十代の頃はよくヨーロッパを回った。が、四十になると、彼は殆どアジアしか行かなかった。ヨーロッパに何の魅力を感じなくなった。異質なるものを、受け入れるには歳を取り過ぎたのかもしれない。その点、アジアは、どこか相通ずるものがあって、心を休めることができた。
劇は終わった。いつしか詩織は軽い眠りの世界に入っているようだった。隆夫は軽く肩を揺すった。詩織は「ごめんなさい」と言いながら起き、その長い髪を掻き分けた。
夕日が沈もうとしている。
隆夫は水割りを作り、窓辺の椅子に腰をおろした。
「綺麗、海が黄金色に輝いている」
いつの間にか、詩織は窓ガラスに寄っている。
「眼が覚めたのか?」と隆夫が聞くと、
詩織は「たった今」と答えた。
「夕日がとても綺麗、だけどあっという間に消える。そのせいかしら、悲しい気分になるのは」
「美とは、はかない宿命を持っているんだ。だから逆に、美といえるんだ。でも、君の方がもっと綺麗だ」
隆夫はいつしか詩織の豊かな胸に手を当てていた。詩織はその手を振り払おうとはなかった。
「先生、そういって女を泣かしてきたんでしょう」
詩織の瞳を見た。すると、詩織は眼をゆるやかに閉じた。隆夫はくちづけた。甘美な衝撃が詩織の体を貫いた。隆夫は青年のように荒々しく抱きしめてベッドに押し倒した。
「先生、痛い」と詩織は甘ったるい声で呟いた。
「ごめん」
詩織がくすっと笑った。
「何がおかしい?」
「だって子供みたいなんですもの」
「この」とって言って、また詩織を抱き締めた。詩織は、その指、その息、その体に隆夫の激情を感じていた。女にはない荒々しい激情は、詩織を酔わせた。それは、ちょうど大波に弄ばれる小舟に似ている。処女なら恐ろしさに震えたかもしれないが、詩織は既に処女ではなかった。むしろ詩織はその大きな波を積極的に受け入れようとした。
隆夫は詩織を抱き、二つの体は一つになった。しばらくして二つの体が離れた。隆夫は彼女の顔をのぞき込んだ。
「君はとてもきれいな目をしている。まるで子猫のような美しい目をしている。でも、なんだか、ずっと見ていてはいけないような気がする」
「だったら、お止めなさい」と詩織は微笑んだ。しかし、隆夫は止めなかった。
「とてつもなく透明で際限のない井戸の底を覗き込んでいる気がする。ちょうど、宇宙の遙か彼方に輝く星を観ているようだ。もっと近づいて、もっと知りたい。君は今までどこにいて、何をしていたのか?」
「答えたくないわ」と微笑んで背を向ける。
「こっちを向きなさい」と隆夫は詩織の背中を軽くなぞる。「くすぐったい」と言って詩織は振り向く。見つめられた隆夫は意外にも真面目な顔していた。
「今度はタイで行くんだ」と隆夫は言った。
「どうして?」と詩織は微笑む。
「君の笑顔を観ていて、ふとタイに行きたくなったからだ。タイは不思議な国だ。日本と同じ東洋なのに、同じようで同じでない。そして、あの国は日本以上に混沌としている。まるで泥の沼に咲いた蓮の国だ。とても不思議な国だ。君も一緒に行こう」
「厭と言ったら?」
「別にかまわないさ」
「じゃ、私も行くわ」と詩織は答えた。
詩織は、いつしか微かに寝息をたてて眠る隆夫の傍らで、自問した『隆夫に惚れたのであろうか? それとも打算あって隆夫と寝たのであろうが』と。だが、人の心とは微妙なもので、それは刻々と変化する。ときとして、考えれば考えるほど分からなくなることがある。詩織も考えすぎて、逆に迷宮に中に迷い込んでしまった。しかし、彼女の良いところは、どんなことでも簡単に止めることができることだった。そのときも考えるのを止めた。すると、直ぐに眠りについた。
一週間後、雨がしめっぽく降る五月のある朝、二人を乗せた飛行機が成田を飛び立った。
飛行機は果てしなく続く雲海を越えた。そこは青の空間、無限大に広がる宇宙の闇に連なる世界である。
「神様になったみたい」と上機嫌に詩織が囁いた。
「飛行機は初めてかい?」
「初めてじゃないけど、久しぶりよ。でも、いつも初めて乗るときと同じくらいワクワクする」と子供みたいに窓の外をのぞきこむ。しばらくして、詩織が話かけようとして隆夫の方を振り返ると、隆夫は眠っていた。夢を見ていた。旅仕度をしているときの夢だった。 ――旅支度をしている傍らに妻がいる。妻が背を向け泣いている。すまないと思い慰めようにとして、肩を抱くと、妻が振り返った。その顔に驚き目覚める。到底、人間の顔とは思えなかったからである。その顔に見覚えがあった。確か、バリ島の画家の絵に出てきたような奇怪な鬼のような顔である。――
隆夫は目覚めると同時に軽い悲鳴を上げた。
「先生、どうしたの?」
「何でもない」
「悪い夢を見たのね」と言って詩織がハンドバックからハンカチを取り出し、その顔を拭いてくれた。
隆夫が窓の外を見ると、飛行機はまだ空高く飛んでいた。
「今は何時だ?」
「まだ六時よ」
「そうか」
「何を読んでいる?」
「アルベーユ・カミュよ」
「カミュは嫌いだな」
「あら、どうして?」
「彼の作品は皮肉に満ちている。それに若さというのもない。希望とか、夢とかいった甘ったるいものがちっともない。まるでインドカレーのような作家だ。日本人の口には合わないよ。まあ、君はいろんな血が混ざっているからいいかもしれない」
「でも、優れた洞察力を持つ偉大な作家よ」
「そうかな?」
突然、詩織は小声で笑い出した。
「何がおかしい?」
「だって、先生ったら、子供みたいにふくれるんだもの」
隆夫は、美しい女の多くを彼は単なる美しいだけで、頭の中はピーマンみたいに空っぽと信じていた。だが、詩織はそうではなかった。
「また眠るよ」と隆夫は言った。
「私ももう少ししたら眠るわ」
バンコクに着いたのは、お昼過ぎであった。二人はバンコクの町中を散策した。行き交う人の多さに驚いた。東京の混雑とさほど変わらないほど混んでいた。
「どこにも、チャイニーズはいるな、まるでゴキブリみたいだ」と彼は呟いた。
「そんな大きな声でいうと聞こえるわよ」と詩織は彼の耳元で囁いた。
「かまわさんさ。彼らには、日本語なんか分かるまい。それに僕は彼らを侮蔑しているわけじゃない。寧ろ感嘆しているんだ。何しろ世界の四分の一の人口は中国系だ。その繁殖力に感嘆しているんだ。それに東南アジアの経済の主導権を握っているのは彼らだからね」
「先生は意外と物知りね」
「褒めているのか? それとも貶しているか?」
「もちろん貶すわけはないでしょう。これからどうするの?」
「まず、美味しい食事をして、それからタイ舞踊でも見ようか」
彼らはタイ料理で有名な店に入った。一時間後、食事を終えると、タクシーを拾った。十五分ほどで劇場に着き入った。
「ここはね民族舞踊を見せてくれるところなんだ」と隣に坐る詩織に囁いた。
「西洋暮らしの長い君には分かるまいが、東洋人は皆、何か通じるものがある。これは個人的な解釈だか、タイの舞踊も日本の能も似ている。ともにその根底に仏教の精神がある」
「不思議な踊りね。でも私に良く理解できないわ」
隆夫は創作に行き詰まると、独りでぶらりと旅に出る。張り詰めた意識を和らげるためである。三十代の頃はよくヨーロッパを回った。が、四十になると、彼は殆どアジアしか行かなかった。ヨーロッパに何の魅力を感じなくなった。異質なるものを、受け入れるには歳を取り過ぎたのかもしれない。その点、アジアは、どこか相通ずるものがあって、心を休めることができた。
劇は終わった。いつしか詩織は軽い眠りの世界に入っているようだった。隆夫は軽く肩を揺すった。詩織は「ごめんなさい」と言いながら起き、その長い髪を掻き分けた。