犬と探偵たち(仮)
「教会がですか? うーん、犯罪に関わっている物だから警察が所有するって事でいいんじゃないですか」
モカが居ない今、ロイはキッチンに立つとコップに紅茶を注いで警部に出す。
「ありがとう。だが相手は教会だよ。そうもいかん。例えば、モカくんからの寄付ならすんなり行くのかもしれん。まあ、そんな事で頭を痛めているんだ」
「では、放棄しますよ。彼女もそんな汚れた宝石を欲しがらないはずです。それに……モカはそんな物よりも、もっと価値あるものを手に入れましたから」
あっさりとロイは答えた。
「ナタリーか。譲り受けたんだって? 分かった。じゃあ、この件はそのように教会に報告しておく」
「ええ、依存はありません。ところで……。一八七二年の九月にこの事務所で起こった事件覚えてますよね」
今までと違い、ロイは眉間に皺を寄せながら眼を閉じる。
「当然だ。今でも我々はあの事件の犯人を追っている」
「ジャスティスから聞いたんですが、あの時この事務所から持ち出されたものに見つかってない物があるようなんです。それは捜査の時に見落としたノートらしいんです」
「ほう。それはどんなノートなんだね?」
「詳しくは分かりません。何でも、この国の王族たちの秘密が書かれた物のようですが。しかし、何故そのような物をジェイミーとエイダが持っていたのか。そしてそれはどこに隠してあったのか。ボクもその存在を知りませんでしたからね」
過去を思い出すように、ゆっくりと話しながら目をつむる。
「では、刺殺された原因はそのノートにあったのかもしれないって事か。分かった。署に帰ってもう一度あの事件を洗い直してみるよ」
一気に紅茶を飲み干すと、椅子から立ち上がる。
「お手数ですが、よろしくお願いします。何かお手伝いできることがあったらいつでも声を掛けて下さい」
「おい、金はとらんだろうな?」
「それはどうでしょうかね。ジェイミーならきっと、笑顔で請求書を書いたでしょうから」
冗談を言ったようだが、自分にも逆効果だったようだ。お互い少ししんみりした雰囲気が流れた。しばらくすると、ドアが勢いよく開く音でその空気は突然中断された。
「せんせーい! ちょっと手を貸して下さい。ナタリーが恋をしちゃったみたいなんですよう! いつものオス犬の所からいくら引っ張っても動こうとしません。まったくもう!」
その様子を見たロイとバンバー警部は、やっとくすくすと笑い出した。
「分かった、すぐ行くよ。警部、散歩がてら一緒にどうですか。街から表彰された立派な犬も、恋には弱いんですねえ」
肩をすくめると、コートを羽織る。外には雪がちらつき始め、街を白く染めはじめていた。
「なあ、ロイくん。落ち着いたら詳しく君に聞こうと思っていたんだが、あの燃え盛る屋敷からどうやって脱出したんだ?」
歩きながら警部がロイの顔を覗き込むように見つめた。
「なあに、簡単な事ですよ。煙は隙間に吸い込まれて行きます。私には弾丸が一発だけ入った銃をこの手に持っていました。ですが結局、それを使う事はありませんでした」
「どういうことだ? 地下牢で君は化け物と戦ったんじゃないのか?」
納得がいかないように首を捻る。
「ボクはとっさに彼女たちが入っていた房に逃げ込み、鍵を掛けました。何故なら、その房の床に煙が激しく吸い込まれていくのを見たからです」
「そうか。そこに隠し扉か何かがあったというわけか。唯一化け物から身も守れるし一石二鳥の選択だな」
「ええ、それは幸運でした。で、そこでふと考えたんです。これをもし彼女たちが見つけさえすれば、いつでもその扉から屋敷の外に出られたんじゃないか? と。ですが、ひとつだけ分からない事があります」
「なんだ?」
「実は、床下の隠し通路の壁に妙な落書きを見つけたんです。そこには……。『ごめんね、アニータ。母さんを許しておくれ』とか『本当にすまん、家族のためなんだ』などと殴り書きがしてありました。こんなものが壁に何十と書かれていたんです」
「つまり――親たちが、自分の意志で子供を売ったという可能性が考えられるということか?」
「はっきりとは言えませんが、もしそれが事実だとしたら……この国の貧困に付け込んだ憎むべき悪習とでも言えますね。ひょっとしたら、ボクらが考えるよりもはるか昔からこんな実験が行われていたんじゃないかと」
「かもしれんな。今度そこに連れてってくれないか。ここだけの話だが、最近アッパー地区の王族が奴隷を大量に集め出したらしい。まさかとは思うが、嫌な予感がするんだ」
「まだジャスティスや執事、そしてモンクの死体は見つかっていない事と関係がありそうですね。分かりました。明日にでも一緒に行きましょうか」
「頼む」
やがて二人の目の前には、オス犬からナタリーを力いっぱい引き離そうとするモカの姿が見えてきた。片手を包帯で吊って上からボールを投げるような恰好でリードを引く姿は、さながらピッチャーの投球フォームのようだ。その周りを街の人が囲み「お嬢ちゃん、もう少しだ、頑張れよー」と応援する人まで出る始末だ。
「おおい、モカどうした。力負けしてるぞ」
「遅いですよ先生! 笑ってないで手を貸して下さい! まったく、ナタリーのバカあ」
モカは頬をぷっくりと膨らませながらロイにリードを渡すと、つんっと横を向いた。
一方、少し離れた建物の蔭から、この様子をじっと見つめる人影が二つあった。片方の人物の頭からほっぺたにかけて、まるで火傷を負ったとみられる傷がただれたように刻まれている。
「ふん、探偵と警察風情が。今のうちに平和を楽しんでいるがいい。あれから手にいれた、この『王族のノート』さえあれば、私は何度でも復活するだろう。そう、今度は王族たちが私の味方なんだ。――おい、そろそろ行くぞ」
その男は身を翻すと建物の蔭に消えて行った。その男に付き添うようにしていたせむし男が、最後に一度だけ振り返りもごもごと一言だけ呟いた。
「ジャスティス様をあのようなお顔にしたお前たちを、私は絶対にゆるさない」と。