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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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六「ベルの音が聞こえ〜途端に味をなくした」



 ベルの音が聞こえた。信夫は、けたたましい音を聞くと、身体をゴムのようなもので覆われて、柔らかく縛られているかのような不快感を覚えるのが常だった。無意識のうちに両手が頭を覆い、身体を折り曲げて膝と額とをくっつける。しかし、ベルの音は次第に大きくなっていった。眠りが覚めかけているのか、実際に音が大きくなっているのか、信夫には分からなかった。しかし、ベルの音には際限なく大きくなっていきそうな気配があった。音が振動として感知できるようになり、部屋の壁がぼろぼろと崩れ始める。テラス戸が小刻みに揺れ、ガラスにひびが入っていく。信夫はいっそう身体を小さくした。書斎のソファーは十分に大きく、人一人が丸くなれるくらいのゆとりがあった。しかし、その座面の傾き具合が、今の信夫の神経を不安にしていた。身体がだんだんに傾いて、どちらが上なのか下なのかも分からなくなるという感覚は激しい吐き気を催させた。今では、もうほとんど覚醒しているということが自覚できるまでになっていた信夫は、電話室の防音装置が全く働いていないということに不信を感じ苛立っていた。やがて、ベルが止み、一切が沈黙したとき、信夫はソファーから身体を起こした。開け放されたテラス戸から心地よい風が入り、レースのカーテンを膨らませていた。白い光の中に、鬱蒼とした庭があった。信夫はだるさの残る身体を運んで、裸足のまま庭に出た。足裏の感覚が妙に渇いていて熱かったので水を撒こうと思った。水は裏の井戸水を使う。父親がいつもそうしていたので、信夫にも習慣となった作業だった。ズボンの裾をくるくるとまくり、シャツの胸をはだけて、遅い午後の幾分赤みがかった光線の下、信夫は滅茶苦茶に水を散らして歩いた。所々に、虫が食ったような穴のある葉が見受けられた。また木立の根元の苔の一部が干からびているのも見つけた。いつも几帳面に手入れをする父親の姿が脳裏に浮かび、同時に最近急に忙しくなって奔走している父の背中が思い出された。額から汗が滲み、身体のだるさが抜け始めたところで、食堂から母親の呼ぶ声が聞こえた。電話だという。信夫は腑に落ちない様子で電話室の扉を開き、ホルダーにかかった受話器を手にとった。かすかにぬくもりの残るその部分が、信夫に吐き気を催させた。
「もしもし、久しいな」
 電話の声は遠いところから聞こえてきた。快活な物言いとはそぐわない沈んだ調子で話しているのは、同級生の多田一郎という男だった。
「随分遠いようだが、どこからかけている?」
「山奥の古い洋館の厄介になっている。もう一週間にもなるか。女将がなかなかの艶で放してくれない」
「結構なことだ」
 信夫は、この男が自分に何の用があるのか検討がつかなかった。多田とは親しい仲ではなく、辛うじて薄い印象が残っているだけである。
「論文を仕上げるつもりで山ごもりだ。もっとも一人で原稿を睨んでいると、女将が袖を引くのでなかなか進まない。こんな山奥に一人で住んでいて、ホテルとも旅館ともつかない洋館をきりもりしているというから妙じゃないか。だが君はこういう風情は嫌いではあるまい」
 多田はその村の様子や、女将の情けを調子よく語っていった。それは信夫には関係の無い話だった。多田の声は一貫して暗く思いつめたようだった。電話が遠いせいとばかりは言えないようだと、信夫は思っていた。
「あと一週間ほどでこちらは雪になる。そうしたら一切の交通は遮断される。とうぜん論文は提出できない。留年だ。情けをとるか、最低のプライドをとるか、なかなかの難問だぜこれは」
「まあ、好きにするがいい」
 信夫は簡潔にそう応じた。非常に重苦しい気分だった。電話を切ってからもその重苦しさは減ずることなく信夫の胸にとどまった。まるで自分が女に言い寄られて断りきれないでいるような落ち着かない気持ちになった。コーヒーを飲もう、と信夫は思った。

 食堂では母親がゆり椅子を揺らしながら毛糸を編んでいた。暗褐色の毛糸玉が足元で震え、それをじっと狙っている黒猫が滑稽だった。
「随分と遠い電話だったようだけれど、どなた?」
 母親は手元から顔を上げずに言った。胸のあたりから膝の上そして床にまで、その編物は伸びていた。一体何になるのかわからないほど、ただ四角くて長い暗褐色のものが、黒猫の前でうねっている。
「学校の知り合いだった。論文を書くんで山にこもっているらしい」
「そう。あまり礼儀を知らない子ね。悪い子なのね」
「そうかもしれない」
 信夫は手早くコーヒーの支度をした。二人分の水を注いで火にかける。鼻の奥に香ばしい香りが感じられた。猫がとうとう毛糸玉にじゃれつき、母親はこらと言って猫を退けた。そんな様子が傾いた日差しの中で優しく写った。
「あなたは、どうなの? ちゃんと卒業できるの? 父さん、怒るわよ」
 母親は信夫の方を見ないで言った。信夫もアルコールランプの炎を見つめていた。
「問題ないさ。やるだけのことをやってそれでおしまいにするんだから。難しいことじゃない。別に山ごもりしなくたってできるし、父さんに汗をかかせるようなこともしない」
 湯が沸き、コーヒー粉と混ざる。粉が膨らんで蒸気が顔を湿らせた。しばらく放置して、アルコールランプを遠ざけ、用意したカップに注いだ。母親のそばにカップを押しやってから、信夫はゆっくりと自分のコーヒーに口をつけた。すこし苦味にきついブレンドは頭をはっきりさせるには最適だ。母親はいつもクリームを入れて飲んでいるが、信夫はその用意まではしていなかった。おそらく母親はコーヒーには手をつけないだろうと思ったからだ。
「最近、あの子見ないけれど、何か悪いことでもあったの?」
 唐突な質問は母親の常だった。信夫は母親のそういう不意打ちには慣れることが出来なかった。手元では相変わらず長いものがのたくっていた。猫は外へ出たようだ。毛糸は日の名残を受けて時折鮮烈な紅色にきらめいた。信夫は影になった母親の腹のあたりから際限なく伸びるはらわたを見ているような錯覚に気恥ずかしさをおぼえた。
「私は、あの子は良い子だと思うわ。父さんもあの子が好きよ。それはあの子の家柄が気に入ったんだと思うけれど、変わりはないわ。だから、私達の好きなあの子が最近どうしたのかと母さんは心配しているのよ」
 信夫の口の中でコーヒーが途端に味を無くした。