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熾(おき)
熾(おき)
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月のあなた 下(4/4)

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日常回復


   
 女がヘッドセットに話しかけている。

「ええ。分かりました。ただ、ここは学校です。学園生活を乱さない配慮をするという条件付きでお願いします」

 こめかみのボタンを押して通話を終了したそこへ、男が入ってきた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様。報告をお願いできるかしら?」

「まず全般、授業再開一日目の午前中を終えた限りでは、何の支障もありません」
「予想通りね。生徒たちの様子は? 家族に何か質問をもらってきた子とか」

「零力のない、もしくは解放されていない生徒とその家族は、個人差はあるものの、やはり当日の午後のことを一切忘れています。ニュースの内容に合わせて自分の記憶を作り替えている子もいますね。また、あの狼男に関する記録は、映像も音声も、官庁も民間のデータベースも含めて、ありません」
「そ。さすがは古い神霊ね。それくらいの〈領域〉を展開してくれると、こっちも後処理が楽だわ。一時は、自分に高校生の子供がいることさえ忘れたんじゃないかって親が出てきて焦ったけど、変に怪談話を覚えていられても困るもの――先生に、記憶障害はない?」
「これを着ていますから。領域の中でも認識をゆがめられることはありません――逆に…」

 男が言いかけて、口をつぐんだ。

「何?」
「いえ、生身のあなたがすべてをはっきりと見聞きし覚え、整理できていることが凄いと――さすがは月待しろの〈記述者〉ですね」
「褒めても何も出てきやしないわよ。結局は零力も、自分の内側で行使するかぎりは経験と訓練で強化できるのよ。ほら先生、だまし絵ってあるでしょ? あと一昔前のテレビでやってた、脳トレのゆーっくり写真の一部が変化してくやつ」

「はあ…」

「分かるって言って。嘘でもいいから年を感じさせないで…あなたは昔から」
「すみません」

「謝るのだけは早くなったわね。つまりは、ああいうのも慣れなのに、見えない人にはあることさえ分からない。それが〈感知されないもの〉である零力現象の正体よ。無知イコール非存在。かくてマレウドと人間たちは正面衝突もせずにここまでこれた。マレウドは稀人――その名の通り絶対少数者であることによって。人間は、マレウドが零力を発動し、領域を展開しているときに認識を消されることによって」

「だがごくたまに、あなたのように世界の裏側が見えるようになってしまう人がいる。どうしても〈領域〉とのひずみを露見させてしまうほどの悪事をなしてしまうマレウドがいれば、そういう人間は当然気づき、周りの目を覚まそうとする」
「そう。まあ素質のある人間でもきっかけが要るし、保持のためには動機付けだっているけどね――で、よ」
「彼女ですか?」
「そうそう。呼び出してくれた? 医者の見立てはどうなの」
「…やや記憶に混乱がありますが、テロ警報があったことさえ覚えていないとのことです。生徒たちが地縛式の吸血を受けたことなどに関しても、どこかで見ているはずですが――ライ・ディテクターでも不自然なところはありませんでした」

「そう…あの狼が彼女を選んだのが、引っかかるのよね」
「偶然では?」
「その可能性もあるけど。みんながころりと眠ってる内に、自分だけうろついてたら犯人にぶち当たった、って可能性もあるわ。要石の器にするなら、零力の高い子の方がいいもの」

 男はくすりと笑った。

「あなたじゃあるまいし」
「うるさいわね」

  *
 
 昼休み開始のベルが鳴ったが、隣の友人が動かない。

 日向はかちんこちんに緊張した。
 破損した学校が修復に要した丸一週間の臨時休校中、日々姉の説教を食らいながらも、日向がひたすらに心配していたのは蜜柑のことだった。

 姉曰く、
「羽衣着てたんなら、ふつうは覚えてないから大丈夫。母さんが戦ってたときだってあんた、母さんが暴れれば暴れるほど、街の人は物忘れが激しくなるって寸法だったんだから」
 とのことだった。

 それはそれで寂しい気もしなくもないが、このような緊張を味わいながら友人と接するくらいなら、やはり忘れてもらっていた方が良い。
 表向きには他の生徒同様、テロリストのガス兵器の犠牲になったとして病院に担ぎ込まれていた蜜柑には、今朝まで接触することができなかっった。その今朝にしても、家族が体調を心配して車で送ってきたために、話すことはできなかったのだ。

(CHAINでは普通だったし…大丈夫だよね?)

 日向は意を決し、ぎ、ぎ、ぎ…と音が鳴りそうなほどゆっくりと蜜柑の方を向き、

「み」
「おーっす、ひなたみかーん!」
「二人とも、なんだか久しぶり」

 晶と法子に先を越された。

「あ、久しぶり」
「いぇいいぇい」 
「…かんちゃん」
「ん? なにひなちゃん」

 蜜柑が笑顔をむけてくるが、そこには何も妙なところはなかった。

「あー、うー…。か、からだ大丈夫かなって思って」

 語尾をごにょごにょと濁らせるが、気にせずに答えてくれる。

「ありがとう。もう大丈夫だよ。心配掛けてごめんね」
「…うん」

(良い子だなあ、なんだか若干寂しいけど。)
 日向は涙ぐんだ。

「ひな、なんでそこでティッシュなんだ」
「うるさい」

 ついでに鼻もかんだ。

「あれ、ひなちゃん腕輪なんかしてたっけ?」

 日向がポケットにティッシュをしまい際、法子が指摘した。

「あー…これ、家の引き出しで見つけて…つけたら…外せなくなった」
「うはははは! ばっかじゃーん! 馬鹿発見!」
「っさい!」

 日向が晶とじゃれているのを、蜜柑はぼうっと見ていた。

「…みかんちゃん、何かあった?」

 法子に聞かれて、なぜか慌てる。

「あ、ううん! それよりわたし、先生に呼び出されてるんだ。当日のことでまだ聞きたいことがあるんだって」
「はあ、巻き込まれただけなのに大変だね」
 蜜柑は首を振った。
「無事学校に戻ってこれたんだから、これ以上は望めないよ。犯人の人は、死んじゃったんだしさ」
「そこ同情するとこじゃなくね? 犯人、だいたい自殺だろ? 国防に追い詰められてさ」
「…あ、そう、そうだよね。じゃ、じゃあわたし行ってくるね」

 席を立った蜜柑の袖を、日向は思わず握った。 

「みかんちゃん、中庭で待ってるからね」
「…うん」

 頷き返し、弁当箱とパンの袋を持って扉へ向かう。

「早く来いよー、なんならシュウせんせも誘って」
「それはどうかなー。晶、自分でさそいなよ」
「おっ…、のりっぺ。なんか蜜柑が強くなった」

 蜜柑が笑って手を振り教室を出た後、三人も中庭に向かった。

 その少し後で、二人の女子生徒が教室を出た。

  *

「ふう」

 職員室に向かう途中で、蜜柑は何度もため息をついた。

(何だろう。変な感じ。)

 入院中に受けた投薬と検査のせいだろうか。
 それとも、金曜の記憶が自分だけはっきりとしないせいだろうか。
 カウンセラーの人によれば、他の子の中には、テロリストが乗り込んできたときのこと(黒い服を着た集団だったらしい)や、ガス弾からガスが吹き出した光景を語った生徒もいるらしい。