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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 下(3/4)

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never say never



 自分たちの住んでいた小さな世界が、後へ、後へと過ぎ去っていく。

 だが日向の目には、沈む日を追うようにはるか前を飛ぶ、狼頭鷹翼の男だけが映っていた。

「どうすれば…」

 なぜ狼男が蜜柑に執着するのかは分からない。
 だが、蜜柑を置いていけば許すという脅しは通じず、狼男を傷つけようとすれば、蜜柑を道連れにすることも考えられた。

(蜜柑ちゃん。蜜柑ちゃん。)

 ――そんなの、ふつうだよ――

 目の前が滲んできた。
 血まで吸ってきたのに、わたしのふつうを、取り戻すことができない。

「ぐ…」
「おじょうさま」
「どうしたんですか。なぁに、いけますよ。あっしらがついてます」
「そうだよ! 元気を出すんだ。泣いてるなんて君らしくないぞ!」

 数秒、翼が風を切る音だけが続いた。

「……?」

 日向は袖で涙を拭くと、自分の目の前に浮いている物体をはっきりと見た。

「こんなときに、泣いているのはね…ぼかぁ、いやだな」

 小麦色に焼き上げられた円いパン。その中心に一つ、円いふくらみ――ここが鼻で。
 その両脇に、輝きを帯びた同じサイズ、半分のふくらみ――こことこれがほっぺで。
 上半分に二つ並んだつぶらな瞳と、下半分に笑顔の口。
〈AMA!〉とロゴが打たれた紙袋をマントにして――

「あんこ、ぱーんち! やあ良い子の君、名前は何かな?」

 空飛ぶあんパンは、コスチュームの腕を組んで言った。

「ひ、日向…」

 日向はスカートのポケットを探った。パンは、無くなっていた。
 しゅび、とあんパンは右手の親指を立てて見せた。

「オーケー日向君! 状況は分かっているよ。ぼかぁこれからちょっと行って、悪者に話をつけてくるからね。君はその後で、君らしく行動すればいい。つまり、まっすぐぶつかるんだ。大丈夫。必ずうまくいく」

 日向は一瞬頭が混乱した。少なくとも記憶の中のこのキャラクターが戦っていたのは虫歯の悪魔とか、ふくれあがったカップケーキとか、そんなものだ。

「そんなこと…できるわけないよ」
「日向…」

 横顔で振り返ったあんパンは拳を腰に当て、〈ごめんなさい〉と書かれたマントを翻しながら言った。

「できるわけない、なんてことは無いんだ」

「え?」
「それいくぞっ!」

 あんパンはアニメの中そのままに、空を飛んでいった。

  *

「おい君!」

 奇妙な子供の、勇ましい声が横から響いた。

「日向君の友だちだね」
「――」

 蜜柑は、ぽっかりと口を開け、それがふさがらない。
 当然だろう。それは父の焼いたパンで。それがアニメのキャラクターのように飛んで、話しているのだ。

(いったい。)

 いったいこの世界には、いつ、想像もしなかったようなことがなくなる時があるのだろう――

「日向君と一緒に助けに来たよ。あいつが君を連れ去ろうとしてるんだね?」
「ひなちゃんが?」

 あんこパンマンは頷いた。

「それで、一つ聞いておきたいんだ。君は、元の生活に戻りたい? それとも、このままこの怪物に連れ去られたい?」
「それは…」

 蜜柑は、一瞬戸惑った。
 だがそれは、一瞬だけだった。

「もどりたいです!」

 これが夢と現実の狭間の世界なら、きっとこの夢は、自分に最後に与えられた選択肢なのだと思った。

「どんなに、つらいことがあっても…そこに好きな人たちがいるのなら…!」
「わかった。ぼかぁ力になるよ」

 それは、矢のような早さで狼男の鼻先まで飛んでいくと、腰に手を当てて言い放った。

「おい、悪者め! この子を縛り付けるのはやめろ!」
「…下等な浮遊霊か」

 狼男は驚き、一瞬前進を止めた。

「さもないと、敗北を喫することになるぞ!」

 狼男は進行方向だけを睨み、再び西へ進もうとする。

「反省しない悪者め! 覚悟しろー!」

 あんこパンマンは右拳を引くと、自分の何十倍もある相手に正面から向かっていった。

「あーんこ」

 だが次の瞬間、その夢は、狼の爪によって二つに引き裂かれていた。

「あ――」

 パンはパンになって、マントは紙になって、下へ落ちていく。       

「力のありすぎる石というのも問題だ…何でも引き寄せることになる」
「あなた――」

 自分が今日食べたもののことも覚えていないのか――
 蜜柑のこころに初めて激しいものが灯ったとき、

「みかんちゃーーーーん!」

 後ろから、その声が聞こえた。

  *

「!」

 狼は、背筋が凍った。
 振り向けばあの少女が追ってきている。

「来るな」

 左手で蜜柑を抱き寄せながら、右掌から光の矢を何本も射出した。だがそれは全て少女の額に当たるはるか手前で、見えない壁に当たって逸れ或いは四散した。

 少女は翼を拡げ、接近してくる。
 両岸に雪色の花が散る大きな河の上を、最後の太陽に額を照らされて。
 なんという意志を秘めた紅い瞳だろう。
 なんという大きな黒い――だが光を帯びた翼だろう。
 この力は、いったいどこからきているのだろう。
 そう思った時、彼は少女の翼の遥か後ろ、沈む入日の最後の輝きを紫の水面に移す大河のその先にある真っ黒になった山陰の上に、出ている闇の中の大きな光を見た。
 光は東方より。
 尽きせぬちからは、月のあなたから、来ていた。

 光を背負った少女が叫んだ。

「みかんちゃーーーーん!」
 
 そのとき、大地という大きな弧を描く天秤の上で月は東に、日は西にあった。
 その中心に、必死に手を伸ばす少女と、それへと振り返る少女がいた。

 蜜柑が自分を、はっきりと見ていた。
 この背中から生えた、黒い人外の証。
 何よりも、人の身で空を飛んでいると言うこと。
 これ以上隠すものは無かった。
 まるで裸になっているようだった。
 懸けたものは、自らの希望のすべて。

(それでも)

 日向は手を伸ばす。

 輝く大きな月に、浮かぶ黒い翼。
 日常がきしんでずれてゆがんで変わった悪夢の中へ、あり得ないその子が飛び込んできていた。その夢に入り込み、自分を救い出すのにふさわしい姿で。
 あり得ない。そんなことはあり得ない。

(だとしても――)

 必死にこちらへ伸ばされた、自分と同じくらいちいさな手。
 跳ねた髪に反射する太陽の光。
 泣きかけの紅い瞳。
 月を待って日に向かう、宵闇の天使。

 ((わたしは、信じる。))

「ひなちゃーーーーーん!」

 その子は、はっきりと。
 迷うこと無くこちらに手を伸ばし返してくれた。 
 それを見て、心臓が止まるかと思った。
 次いで、胸が痛み、喉が締め付けられるほどうれしくなった。
 死んでもいい、と日向は感じた。

 伸ばした手と手の間にあるもののためになら、と蜜柑は思った。

「娘、暴れるな。おとなしく」
「――運が悪かったなんて!」

 蜜柑は相手を見上げて睨んで叫んだ。

(たった一度の人生なのに、運が悪かったで、終わりなの?)

 他にできることはないの?
 何か他にできることは!