小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
みやこたまち
みやこたまち
novelistID. 50004
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

そののちのこと(鬼)

INDEX|1ページ/17ページ|

次のページ
 

第一章



 再び太陽が猛威を奮い始めた日を、人々は暦に書き込んだ。二度目の夏。それは終わらない夏の始まりであった。

 或る夕刻、穂積信夫のもとを一人の女が訪れた。女が屋敷の門戸の前に立った姿は、地面の熱にあおられて溶けかかっている影法師のようだった。
 庭の修復に専念していた信夫は、胸元を冷気のようなものに当てられて顔を上げた。目を凝らしたその先で、影法師は頭を下げた。信夫は陽炎のように揺れる影を見ていた。
 無言のまま見つめるうちに、信夫は、互いが心に何を抱えているのか知り尽くしていて、もはや何の言葉も必要ないような錯覚に陥った。
 女は少し唇を開き、小さな白い歯が現れた。女が何か言おうとしているのだということを、信夫は理解した。だが、女の口からはいかなる言葉も発せられなかった。
 その停滞は風と天体の運行をも静止させた。
 どこからか「穂積信夫樣ですか?」という声が発せられた。
 声はすぐと消えた。信夫はその空気を修正する術がないまま、言葉を交わしあう覚悟を決めた。だが女の方が、その空気に押し潰された。沼に沈んでいくように、女は卒倒した。すでに日が暮れていた。塔屋の風見の軋む音が聞こえた。

 闇の中に、三つの光の玉が見える。それは時折溶け合って一つになる。オレンジの暖かい光が、紫や藍色に縁取られて、大きくなったり、小さくなったりしている。他には何も見えない。聞こえない。女は、自分自身さえも見つけることが出来なくなったのだと思った。
 
 無抵抗の女をじっと見つめていると、言いようの無い親近感が涌いた。自分が絶対的な保護者であり、目の前の女は世界でもっともか弱い奇跡の存在なのだと思った。横たわる女との間には、互いに共通した何かがあり、女が目覚めた時から、二人は共に生きていくことになるのだろうと思った。

 女が正気づくと、信夫は顔を引っかかれ、腰の辺りを蹴飛ばされた。両手を抑え、全身で彼女の体を封じた。その折、長い間忘れていた血のたぎるような感覚が、信夫の体内を伝播していった。それは肉と肉とのぶつかり合いだった。女の体に血が通っているのだということを、信夫はいまさらのように認識した。
 信夫は女を組み伏せ、女は観念した。そしてすっかり静かになった瞳で、自分を支配した男の瞳を見つめた。女の瞳には、何も映っていなかった。恐怖が去り、記憶は戻らない。信夫は体の下にある女を支配していながら、この次に成すべき解答を、女の中に求めていた。

 「多田は、三日前に家を出ました。私はそれに気付きませんでした。私の体には、多田に抱かれた痕が残っていました。多田は私を離したくない様子でした。強く、抱きしめることが多田の表現の手段でした。息苦しい抱擁の最中に私は、なんとも言えない幸福を感じていました」
 「お独りなのですか?」
 ただ耳に心地よいだけで、何の感興も含まれない女の言葉に感化されたのか、信夫の声もまた平板だった。
 「戻りません。多田は荷物をみんな置いていきました。お金を持ち出した様子もありません。そして、三日になります。私は不安なのです」
 信夫の視線は女の顔にぴったりと張りついていた。
 「何故、私を訪ねて来たのです」
 女は袂から一冊のノウトを取り出し、黙ってテーブルに置いた。女の首が蝶番のようにのけぞった。白い喉元があらわになり、腰がソファーからずり落ちた。卒倒の前触れだった。信夫は素早く女の側に回りこみ、跪いて女の頭と腰とを抱いた。手の中で女の首がグルリと周り、信夫を見上げた女の顔が奇妙に引きつれた。信夫は咄嗟に顔を背けた。蒼白の顔の真っ赤な唇から細い息が漏れ、信夫の頬を撫でた。
 息は次第に太くなり、それに伴って、口がぱっくりと開き始めた。信夫は女の口を片方の手でふさいだ。しかし、その手の奥底から不吉な風の吹き荒れるような音が響いた。
 女はけたたましく笑い始めた。穂積信夫の腕に身体をだらりと預け、天井を睨んだまま笑い始めたのだ。
 信夫は混乱していた。突然現れた女が、自分の手の中で狂い始めていた。いったい何をしているのか、自分でもわからなかった。手の中にいる女は、しかしどこか風の吹きすさぶ荒野にいるのだった。Oの字に開いた唇が、艶やかに光っていた。瞳は信夫も天井をも突き抜けて、深い闇を見ていた。

 穂積信夫はその顔を見つめ、吸い込まれるように女の口を吸った。女の笑い声が信夫の内部に反響した。女の息が信夫の肺腑に通った。ソファーに女の首を押し付け、女の狂乱をさらに自らの内部へ取り込むように、信夫は女の息を呼吸した。魂の共有に、信夫は陶酔しつつあった。

 女の腕が信夫の身体を掻き抱くように動いた。瞳ははっきりと信夫を見ていた。が、どこか夢心地に緩んでいた。
 信夫は女から唇を離すと、しっかりと抱きしめた。女の唇が「アナタ」という形に動いた。しかし、信夫からは、その動きが見えなかった。
 女は、再び意識を無くした。ずるずるとソファーを滑り落ちていく女を辛うじて支えながら、信夫はこれまでのことを反芻していた。見ず知らずの女だった。
 
 女を横たえ、静かになった息を聞きながら、卓上のノウトを手に取った。ノウトの透かし模様は、何かの花であるらしかった。これと同じ紋を信夫は以前に見たことがあった。だが、それは遠い話だった。この女はそこからやって来たのだろう。信夫はノウトを卓上を戻した。タイを緩め、シャツの袖をまくった。肉体は疲労の極地にあった。だが精神は燃え立つほどの活動を求めていた。
 静かな、そして相変わらず冷めることを知らない夏の闇、仄かに浮かぶランプの明かりの届く範囲に、その小宇宙はあった。時折響くのは、カツンカツンというカップの音。閻魔こおろぎも、かまどうまも鳴かない。女の声が、信夫の耳に優しく響いた。それは穂積信夫自身の内側から、囁きかけられているようだった。
 薄影のような女が信夫の前に立ちはだかり、存在を濃いものに変えていく。信夫は目を閉じ、目の前の女の影は、これからどのような姿に変化していくだろうかと考えた。考えながら、信夫も眠りに落ちていった。そして、信夫の目の前は真っ赤になった。