Hysteric Papillion 第5話
キュルルルル…クルルル…。
どうでもいいけど………お腹…すいたぁ…。
もうさっきからずっと、薫さんに聞こえない程度のこんなお腹の鳩時計が聞こえていた。
いや、もう少ししたら、鳩時計じゃなくて、かえる時計になるかもしれないというほど、切羽詰った状態だ。
胃が全身を震わせて、一生懸命『助けてーっ!!』って叫んでいると思うと、いたたまれない気持ちになる。
でも、散々抵抗した後に連れて行かれた先はもちろん、食事をするようなところじゃなかった。
目の前にあるのは、どう見ても…美容院だった。
もう8時前だというのに開いているなんて…そっか、多分今さっき歩きながらかけていた携帯の相手は、ここなんだ。
「ほらほら、入る入る」
薫さんがドアを開けると、チリィンとドアベルの音。
行きなさい、と命令するように、ドンッと両手で背中を押されて、中に入れられると、そこでは、『待ってました!!』といった感じで一人分のイスだけ空けられていた。
きれいにそろったハサミやコームも準備されていて、その横では、担当の人か誰かがハサミをシャキシャキと空で切っている。
…かなり集中している様子だった。
でも、カウンターの人に『薫さん来たよー』と言われると、コロッと態度を変えて、すごい速さで薫さんに擦り寄ってきた。
背は中くらい、色の薄い、くるくるっとしたかわいい巻き毛の、いかにも美容師さん…といった感じの、これもまた…女性だった。
「あ、いらっしゃーい、薫さん!私、待ちくたびれちゃいましたよぉ…いじわる」
何だぁ…この人…。
しかも、どうして薫さんはこんなネコみたいな行動に出ているこの人の頭を撫でたりしてるんだろう。
私の思いとは関係なく、薫さんは、子供をなだめるような口調で、私より頭一つくらい背の低い女性に話しかけていた。
「よしよし、ごめんごめん。この子がどーしても行かないって駄々こねたもんだから…」
そう言って、今度は、少しふくれっつらの私を彼女の前に差し出す。
本当…祭壇に祭られた羊さんの気分…いけにえって感じだ。
美容師の女性は、『ふーん』と、あまり興味なさげに私の顔をじーっと見ていた…。
…のかと思ったら、すでに瞳の奥底にはハートマークとお星様が見え隠れしている気が…!?
ギュウムッと両腕を鷲づかみ?にされて、にっこり笑顔のこの女性に、ぐんと迫られた。
「かっわい――――っ!!ちょっと薫さん、こんな子どこで引っ掛けたんですか?」
「いいでしょ。でも、この子はあげないから」
しれっとした口調で、薫さんは私を彼女から奪い返すように、自分の体に引き戻した。
また、薫さんのやわらかいものが顔に押し当てられて、私は顔をリンゴにする。
美容師の女性も、そこまでされると…といった感じで、ようやくシャキシャキとハサミを持った手を動かし始めた。
「けちなんだから。でも、一応営業時間外なんですから。何か見返りくらいくれてもいいでしょう?」
女性がそうぼやいてる間に、薫さんにイスに座らされて、首のところにハンドタオルを、そして、切った髪の毛が体につかないようにビニール製の上掛けに手を通させられる。
霧吹きの水で私の髪を湿らせながら、同時に、薫さんは思いついたように言った。
「そうねぇ…じゃあ、終わったらキスしてあげる」
「かっ、薫さん!?」
その言葉に、仮にもしこの口の中にものが入っていたら、全部吹き出してしまうくらい驚いた。
女性が女性にこういうことをするのを、こんなに開けっぴろげに口にしていいものなのだろうか?
だけど、もっと私を驚かしたのはこの美容師さんの反応だった。
「え…本当ですか」
本当ですかって…おいおい。
やっぱり、それは『本当=肯定』の意味を含んでいるのか…なぁ?
お返しというように、薫さんは続けて喋る。
「私は嘘つかないわ。ただし、時間が迫ってるから、シャンプーなしのカットとメイク合わせて制限時間30分」
「30分ですか?あー、それはちょっと辛いかも…」
「ダメだったら、キスはお預け、ね?」
「…がんばりますっ!!」
何が『がんばります』なんですか…!?
こんなことを私が思っているとも知らずに、濡れた髪をスッスッと梳くと、ほとんどわき目も振らず、私や薫さんにカットの要望さえも聞かずに切り始めた。
薫さんのキスがかかっていると、ここまで人は燃えるものなのか…?
シャキシャキという心地よいハサミの音が響いて、パラパラと黒くて短い毛糸のようになった髪が落ちていく。
目の前の大きな鏡には、変わっていく自分の姿がどこ一つたがわずに映されていて、何だか心が沸き立った。
シャキシャキという音がひとつするたびに、自分の姿が違って見えてくる…。
『よく考えたら、外で髪を切るのも初めてかなぁ』なんて考えて、意外なところでの初体験だった。
ドライヤーで髪を乾かすと、一度その席からは立たされて、隣の小部屋に移され、せっかく切ったばっかりの髪の毛をあげられて、ヘアバンドのようなものでおでこを出さされた。
「うわっ!後10分ないじゃないの…ヤバイヤバイ…」
耳元でそんな心の叫びを聞かされている間にも、美容師さんは、今度はメイク係になって、私の頬やおでこにクリームを少しだけ伸ばして、ムニュムニュッと塗りたくられる。
一体どういうことをして、どういう効果があるのかなんてさっぱりわからないけど、悪い気はしなかった。すべすべになっていく感じ。
「…よっし…完成!!ばんざーいっ!!」
私のカットとメイクが完成したのは、例のキスの約束を交わしてから29分と48秒後のことだった。
すなわち、12秒の余裕を持ったセーフだった。
美容師の女性は、精根尽き果てましたーっ…といった顔で、小部屋を出ると、すぐに近くのイスに腰を下ろして、大きく息をついていた。
「…ほら、隠さない隠さない」
「い…イヤですってっ!!」
おずおずと顔を隠すようにして小部屋の中から出てきた私を、薫さんは、顎に手を添えて、くいっと上を向かせた。
ルージュの引いた唇が、間近に接近中。
あ…な、何かエッチだよ…この体勢。
…って思っていたのに、 ワアッとスタッフの人からのどよめきが起こる。
でも、それも無理はないと正直に考えた。
私でさえ、鏡で見たときは、自分の変わりように本当に驚きだった。
唇はピンク色で、何だかゼリーを乗せたみたいにプルプルしているし、瞼にはうっすらブルーの色が入ってて、睫毛もきれいになってるし、眉も整ってるし…。
それよりなにより、髪の毛が雰囲気変わってて…とにかく、あまりにも変わりすぎていた。
「変…ですか?」
かなり勇気を振り絞ってつむぎだした一言だったんだけど、
「どうして。変なわけないじゃない」
どうでもいいけど………お腹…すいたぁ…。
もうさっきからずっと、薫さんに聞こえない程度のこんなお腹の鳩時計が聞こえていた。
いや、もう少ししたら、鳩時計じゃなくて、かえる時計になるかもしれないというほど、切羽詰った状態だ。
胃が全身を震わせて、一生懸命『助けてーっ!!』って叫んでいると思うと、いたたまれない気持ちになる。
でも、散々抵抗した後に連れて行かれた先はもちろん、食事をするようなところじゃなかった。
目の前にあるのは、どう見ても…美容院だった。
もう8時前だというのに開いているなんて…そっか、多分今さっき歩きながらかけていた携帯の相手は、ここなんだ。
「ほらほら、入る入る」
薫さんがドアを開けると、チリィンとドアベルの音。
行きなさい、と命令するように、ドンッと両手で背中を押されて、中に入れられると、そこでは、『待ってました!!』といった感じで一人分のイスだけ空けられていた。
きれいにそろったハサミやコームも準備されていて、その横では、担当の人か誰かがハサミをシャキシャキと空で切っている。
…かなり集中している様子だった。
でも、カウンターの人に『薫さん来たよー』と言われると、コロッと態度を変えて、すごい速さで薫さんに擦り寄ってきた。
背は中くらい、色の薄い、くるくるっとしたかわいい巻き毛の、いかにも美容師さん…といった感じの、これもまた…女性だった。
「あ、いらっしゃーい、薫さん!私、待ちくたびれちゃいましたよぉ…いじわる」
何だぁ…この人…。
しかも、どうして薫さんはこんなネコみたいな行動に出ているこの人の頭を撫でたりしてるんだろう。
私の思いとは関係なく、薫さんは、子供をなだめるような口調で、私より頭一つくらい背の低い女性に話しかけていた。
「よしよし、ごめんごめん。この子がどーしても行かないって駄々こねたもんだから…」
そう言って、今度は、少しふくれっつらの私を彼女の前に差し出す。
本当…祭壇に祭られた羊さんの気分…いけにえって感じだ。
美容師の女性は、『ふーん』と、あまり興味なさげに私の顔をじーっと見ていた…。
…のかと思ったら、すでに瞳の奥底にはハートマークとお星様が見え隠れしている気が…!?
ギュウムッと両腕を鷲づかみ?にされて、にっこり笑顔のこの女性に、ぐんと迫られた。
「かっわい――――っ!!ちょっと薫さん、こんな子どこで引っ掛けたんですか?」
「いいでしょ。でも、この子はあげないから」
しれっとした口調で、薫さんは私を彼女から奪い返すように、自分の体に引き戻した。
また、薫さんのやわらかいものが顔に押し当てられて、私は顔をリンゴにする。
美容師の女性も、そこまでされると…といった感じで、ようやくシャキシャキとハサミを持った手を動かし始めた。
「けちなんだから。でも、一応営業時間外なんですから。何か見返りくらいくれてもいいでしょう?」
女性がそうぼやいてる間に、薫さんにイスに座らされて、首のところにハンドタオルを、そして、切った髪の毛が体につかないようにビニール製の上掛けに手を通させられる。
霧吹きの水で私の髪を湿らせながら、同時に、薫さんは思いついたように言った。
「そうねぇ…じゃあ、終わったらキスしてあげる」
「かっ、薫さん!?」
その言葉に、仮にもしこの口の中にものが入っていたら、全部吹き出してしまうくらい驚いた。
女性が女性にこういうことをするのを、こんなに開けっぴろげに口にしていいものなのだろうか?
だけど、もっと私を驚かしたのはこの美容師さんの反応だった。
「え…本当ですか」
本当ですかって…おいおい。
やっぱり、それは『本当=肯定』の意味を含んでいるのか…なぁ?
お返しというように、薫さんは続けて喋る。
「私は嘘つかないわ。ただし、時間が迫ってるから、シャンプーなしのカットとメイク合わせて制限時間30分」
「30分ですか?あー、それはちょっと辛いかも…」
「ダメだったら、キスはお預け、ね?」
「…がんばりますっ!!」
何が『がんばります』なんですか…!?
こんなことを私が思っているとも知らずに、濡れた髪をスッスッと梳くと、ほとんどわき目も振らず、私や薫さんにカットの要望さえも聞かずに切り始めた。
薫さんのキスがかかっていると、ここまで人は燃えるものなのか…?
シャキシャキという心地よいハサミの音が響いて、パラパラと黒くて短い毛糸のようになった髪が落ちていく。
目の前の大きな鏡には、変わっていく自分の姿がどこ一つたがわずに映されていて、何だか心が沸き立った。
シャキシャキという音がひとつするたびに、自分の姿が違って見えてくる…。
『よく考えたら、外で髪を切るのも初めてかなぁ』なんて考えて、意外なところでの初体験だった。
ドライヤーで髪を乾かすと、一度その席からは立たされて、隣の小部屋に移され、せっかく切ったばっかりの髪の毛をあげられて、ヘアバンドのようなものでおでこを出さされた。
「うわっ!後10分ないじゃないの…ヤバイヤバイ…」
耳元でそんな心の叫びを聞かされている間にも、美容師さんは、今度はメイク係になって、私の頬やおでこにクリームを少しだけ伸ばして、ムニュムニュッと塗りたくられる。
一体どういうことをして、どういう効果があるのかなんてさっぱりわからないけど、悪い気はしなかった。すべすべになっていく感じ。
「…よっし…完成!!ばんざーいっ!!」
私のカットとメイクが完成したのは、例のキスの約束を交わしてから29分と48秒後のことだった。
すなわち、12秒の余裕を持ったセーフだった。
美容師の女性は、精根尽き果てましたーっ…といった顔で、小部屋を出ると、すぐに近くのイスに腰を下ろして、大きく息をついていた。
「…ほら、隠さない隠さない」
「い…イヤですってっ!!」
おずおずと顔を隠すようにして小部屋の中から出てきた私を、薫さんは、顎に手を添えて、くいっと上を向かせた。
ルージュの引いた唇が、間近に接近中。
あ…な、何かエッチだよ…この体勢。
…って思っていたのに、 ワアッとスタッフの人からのどよめきが起こる。
でも、それも無理はないと正直に考えた。
私でさえ、鏡で見たときは、自分の変わりように本当に驚きだった。
唇はピンク色で、何だかゼリーを乗せたみたいにプルプルしているし、瞼にはうっすらブルーの色が入ってて、睫毛もきれいになってるし、眉も整ってるし…。
それよりなにより、髪の毛が雰囲気変わってて…とにかく、あまりにも変わりすぎていた。
「変…ですか?」
かなり勇気を振り絞ってつむぎだした一言だったんだけど、
「どうして。変なわけないじゃない」
作品名:Hysteric Papillion 第5話 作家名:奥谷紗耶