モノクロ、メモリー
この電車は、まだあと3駅先の車庫に入るまで、運転される。
少し悩んで、閉まるドアを横目に、私は車内に残る。
電車は動き始める。
あなた、どこで降りるつもり?
あと3つで、終点よ?
唇は小刻みに動いている。
だけど、声は聞こえない。
困ったな、と私はため息をつく。
中途半端に私のほうがしっかりしている分、心配になるのだ。
『次は~……』
急に、びくん、と彼女が体を震わせて、体を起こす。
停車時のブレーキでぐらりと揺らいで、頭から前に倒れようとするのを私は抱きとめる。
……どうしたの?
……きもち、わる、い……。
途切れ途切れの言葉に、一気に私の意識は覚醒を迎えた。
口元に手を当てて、ドアが開いた瞬間、私は彼女の荷物も私の荷物も投げ出して、外へ駆け出した。
駅員に聞いて降りてすぐのトイレに駆け込む。
彼女は着くなりすぐに吐けるだけ吐きまくって、息遣いを荒くする。
泣きながら、涙をこぼして袖で拭いながら、吐いていた。
もう電車は来ない。
この駅は本当に、車庫のためだけにある駅で、人のためにある駅じゃない。
だから、ロータリーにはタクシーも待っていないし、コンビニもない。
挙句の果てに、雪まで降り始めた。
駅員に聞いても、この辺りでタクシーを呼ぶと、30分は来るまでかかる、と言われる。
明日は休みだということが、せめてもの救いだった。
ほら、飲みなさい、と、私は自販機で買ってきたホットティーを差し出す。
受け取りはするけど、彼女は何も答えず、そして、ペットボトルのフタさえも満足に開けられる状態じゃなかった。
すぐに取り落として、それを拾うのにも、身体がついていかないらしい。
ムチャクチャに飲んで、意識のないままあの電車にも乗り込んだのだろう。
だとしたら、その原因は。
詮索してはいけないとわかっているのに、ホットティーのボトルを抱きしめたままな彼女を見ていると、そうも言えなくなってきた。
私は、後者のはずだったのに。
私のこと、覚えてる?
ペットボトルのフタを開けてやりながら尋ねた私の顔を、彼女は不思議そうに見上げてくる。
やっぱりね、と私はつぶやいて、もう一度尋ねる。
どうかしたの?そんなになるまで飲んで。楽しく飲まないと、美味しくないんじゃない?
駅のホームのベンチに座ったまま、タクシーが来るのを待つ。
雪はしんしんと降り積もる。
30分、というのも、怪しい。
1時間程度を見ておくほうが正しいだろう、と時計を見ると、もう1時になろうとしていた。
もうじきタクシー来るから。
それまで、ここで待つしかないみたいだから。
一口だけ口をつけて、彼女は長い間黙りきっていた。
何もない駅のホーム。
誰も邪魔しない空間。
誰も介入しない空間。
どうも、居心地は悪かった。
好きな人が、いたん、です。
不意に、彼女の声が聞こえた。
私は、黙ったまま耳だけ傾ける。
好きな人が、結婚、するんです。
あなたとじゃ…。
ない、です。
そうよね、ごめんなさい。
苦しいだろうに、辛いだろうに。
どうして見ず知らずな私に、と思いながらも、私は顔を見ることなく、耳だけ傾ける。
平気な顔を装う。
身体の中身は、ガタガタ震えていた。
寒さからじゃない。
これは一種の、過去からのプレゼントだ。
それを思ったら、なんだか、普通じゃ、いられなくて。
ムチャ飲みした、と。
すいません、ご迷惑、かけて。
吐くだけ吐いたら意識がはっきりしたらしく、あの時のように丁寧に頭を下げてくる。
私の買ったコーヒーは、飲まれることなく、手のぬくもりで辛うじて、生きていた。
彼は、知ってるの?あなたの気持ち。
彼じゃ、ないんです。
彼女?
さらり、と私の口から出た単語に、彼女は目を見開く。
そして、また一口ホットティーを流し込む。
私は、ぐっとコーヒーの缶を握りしめる。
今、彼女幸せそうだから言えないし、それに、言って、友達じゃなくなるほうが、辛いから。
彼女は、カバンからいつもの文庫本を取り出す。
甘いオレンジ色の、手製なカバーで包まれた、あの文庫本だ。
これ書いてるの、彼女なんです。すごくすごくすごく、いい話、いつも書いてて…。
伝えなさいよ。
彼女が文庫本を開いて、内容を語ろうとしていたのに、私は、そう言っていた。
彼女の方を見ることなく、ただただ、電車も来ない線路に向かって、そう言っていた。
伝えなさいよ。
身体が、震える。
このままだと、少なくともあなたは後悔するわ。
声が勝手に荒がる。
私は後悔したわ、だから、伝えなさい。
私はそれだけ言うと、立ち上がった。
財布の中のタクシーチケットを彼女の手に無理やり握らせる。
タクシーが来た。
私は、動かなかった。
息が白く凍りついていく。
肩に、雪がうっすらと降り積もっているのを払いのけ、それでも私は、ホームのベンチに座っていた。
頭で何度も上映されるのは、私の後悔の日々の映像だ。
何度も何度も上映されて、ロングラン大ヒット間違いなしの、皮肉な物語だった。
仕事帰りのほんのひと時。
美味しいコーヒーが飲みたいね、なんて彼女が言うものだから、私はお気に入りの店へと彼女を連れ立つ。
オルゴール音楽が流れるレトロな店内で、私はカフェオレを、彼女はブレンドを頼んで、テーブルにつく。
豆をひく音に、香ばしい香り。
いい店じゃない、なんて彼女が言うものだから、私はどうしてか偉そうに胸を張る。
コーヒーが運ばれてきて一口含んだ彼女は、大きくため息をついて、おいしい、と言ってくれた。
私もそれに、おいしいね、と返す。
来月、私、結婚するの。
ふいに聞かされた私は、自分で思っていた以上に動揺して、カップをひっくり返す。
熱さに気づくまで、時間がかかり、そして、席から急いで立つ。
彼女は、相変わらずね、と笑いながら、私にハンカチを差し出してくれる。
来月、結婚する。
そう言う彼女は、本当に幸せそうだったから、私は言いたい一言を口の中で噛み砕いて、コーヒーと一緒に飲み込んだ。
飲み込むには時間がかかったけれど、それが彼女のためだ、と強く言い聞かせながら。
来月なんて、仕事に終われていたらあっという間だと気づいたのは、それから1週間もたってから。
こうやって笑い合っていても、もう来月には誰かの奥さんになってしまう。
誰かの奥さん、の肩書きがついて回って、子供も出来て、私なんか二の次にされてしまう。
怖かった。
その迫りくる事実が怖い反面、思いを伝えたとしたら何を言われるだろう、という恐怖と、板ばさみにされていた。
大きなジレンマ。
乗り越えることは容易ではない。
言ってしまえば、友達じゃなくなってしまうかもしれない。
嫌われてしまうかもしれない。
もしかしたら、止めてくれるのを待ってたのよ、なんて言って、結婚はウソなの、と茶目っ気いっぱいに笑ってくれるかもしれない。
言葉を考える。
何億もの言葉が頭を駆け回る。
その言葉の集団をひとつずつ捕まえて、積み木のように重ねていく。
幾重もの何百もの塔が作られ、そして、厳選しながら、ひとつひとつ壊していく。
最後まで残った言葉の塔を大事に守りながら、私は、彼女のもとへと走っていく。