恋愛の理由(後篇)
「やめといた方がいいよ、あいつ、売れる小説書かせてくれないんだから」
「そうですか」
「出版社変わって、ようやく売れる小説が書けるって思ってたのに、あいつ、人が書いた小説いつもコケにしやがった。物語がなってない、書き方がおかしい、主人公設定が甘いって」
「そうですか」
「あたしは朝日の道具じゃないんだから、って逆らったら、あいつ何も言わなくなってさ、それからはあたしも売れるようになって、冗談で始めた作詞もぐんぐん調子出てきて、彼と結婚までこぎつけた」
「そうですか」
「それにね、朝日のやつ、あたしのことなんだか変な眼で見てたから、すごく気持ち悪かったしね。ま、私は売れっ子の彼と結婚して、あの出版社ともおさらばってわけだけど。夢の印税生活が待ってるわ」
「そうですか」
けらけらと笑っていたはずの彼女は、どうやら私が澄ました顔で『そうですか』としか言わないことに気がついたのか、打って変わって怪訝な顔で見つめてきた。
私は、あくまでも、澄ました顔で、心からの作り笑いを浮かべている。
「…だからさ、それ、持って帰ってくれない?」
「いえ、これは、実は私からのプレゼントなので、受け取ってもらわないと困ります」
「なんであんたから?」
「櫻子さんを奪っていかれなかったお礼です」
私は、にっこりと笑って彼女に花束を差し出した。
花束はずっしりと重い。
それもそのはず、沢木さんが嫌がらせだと言わんばかりに、超豪華で、かつセンスのない花束を作り上げてくれたからである。
「どういう意味?」
「彼女のおかげで、今の私があるので、あなたみたいな人間に彼女が連れて行かれなくて良かったってね。そう思うんです」
「だから、どういう意味?」
彼女の言葉に怒りがこもり始めたのが分かる。
私は、しかし、それでも、あくまでも、笑顔を貫き通す。
「櫻子さんは、本物の仕事をする人です。あなたが本物の仕事をしなくなっても、彼女はあなたを待っていた。だけど、あなたの仕打ちは、冗談での作詞と結婚…どれだけ彼女を裏切れば気が済んだんです?」
「…あんた、何様のつもり?」
「何様って、それは私が言いたいセリフですよ」
「おい、伊織、もうすぐ式始まるぞ…」
ちょうど私に向ってきた高幡伊織のこぶしをつかんだ瞬間、彼女の旦那になるらしい男、仲崎道博が入ってきた。
こちらも、近い人間ばかりがいるためか、煙草をくわえ、ファンが見たらげんなりするほどだらけた姿である。
仲崎と私は目があった。
彼が会釈するので、私も笑顔で会釈する。
「それじゃあ、お二人とも、お幸せに。そして、またあちらの世界に戻ってくるなら、きっと、櫻子さんは待っていると思いますよ、今でもね」
私は、高幡伊織ではなく、仲崎の方へと花束を押し付けて、部屋を出た。
そして、しばらく部屋の前で立ち止まっていると、中からは、彼女の金切り声と、仲崎の『なあ、あのいい女、誰?』という俗っぽい声だけが聞こえてきた。
「お疲れ様、で、いいのかしら?」
「そうですね、疲れました」
結婚式が始まる前に、私は式場を出てきた。
重苦しい髪留めを外し、髪の毛を空気中へと解き放つ。
ふわりと舞う髪の毛を見つめる櫻子さんは、妙に子供っぽい。
いや、これが本当の彼女の姿なんだと思う。
本当の自分の姿を押し込めて押し込めて、彼女は、周りが想定するような自分を作り、そして、壊れかけていただけなのだろう。
本当の櫻子さんは、19歳の自分から見ても、とても可愛い。
すぐに手をつないでくるところや、にこにこ笑ってくるところは、とても…。
「…で、ひと段落ついたわけだけど」
「え?」
「書けたの?新作」
とても、可愛いのに、急に櫻子さんは、仕事モードへと変貌することがある。
これだけは勘弁してほしいところだ。
今まで可愛かったはずの笑顔は、悪の笑顔へと変化し、口調は強まり、私は追い込まれるばかりである。
歩くテンポは私よりもはやまり、ツカツカと固いハイヒールがアスファルトを刻む音だけが、私を追い込む。
だがしかし。
今日の私は、その質問に対する答えをしっかりと持っている。
「もちろん」
私は、ドレスのポケットから小さなフラッシュメモリーを手渡す。
彼女は、よしよしと言いながらそれをカバンへと大事に移し入れる。
信号待ちで、一般女性よりも背が高い私と彼女は人一倍視線を浴びる。
私がフォーマルな格好をしているので、それは更に強まっていて、ただでさえ暑い夏の午後が、余計に暑く感じる。
「タイトルは?」
「恋愛の理由」
「……書けたの?」
意外そうな響きを含んだその言葉に、私は、はい、とだけ答える。
そして、彼女は、耳元でそっとささやいた。
おめでとう、と。
私はずっと考えていた。
恋愛小説は書かないと。
もしかしたら、それは、書かないのではなく、書けないと自分が理解していたのかもしれない。
それもそうだと思う。
私は、恋愛に理由を求めていた。
だけど、そうではなかったのだ。
恋愛に理由なんていらない。
これは、初めて恋愛を経験した"私"が言うのだから、間違いは、ない。
―――恋愛の理由 麻生環