恋愛の理由(前篇)
櫻子さんとよっぽど釣り合っていないのか、周りからものすごく視線を浴びていた。
「厳しいとかそういうのではなくて」
「そういうのではなくて?」
ガキッとオマールえびの殻と身の間にナイフを挟まれながら、私は会話していた。
櫻子さんの頬は、おいしいワインのせいでほんのり彼女の名前のように、桜色に染まっていた。
もう何杯目のワインなのやら。
「恋愛ってのが、よくわからなくて」
「なるほど」
「いろいろ勉強してはみたんですけど」
「勉強って?」
「小説を生まれて初めて読みました、恋愛小説っていうのを」
「どうして?」
「どうしてって、恋愛小説、書いたことないからですけど」
その私の一言に、櫻子さんはまた大きくため息をついた。
そして、1人で勝手に『なるほどなるほど』とつぶやいていた。
食い散らされたオマール海老の皿は下げられていく。
結局、おいしいのか、おいしくないのか、味わう好き暇さえなかった印象だ。
櫻子さんは厳しい。
その仕事に対するオーラが感じられるだけに、レベルが低い小説を書いた自分が情けない。
「他人の小説なんかで恋愛学んでどうするのよ」
「ダメでしたか?」
「自分の恋愛見つけてから他人の恋愛を覗きなさい。すごく滑稽に見えるわ、面白いくらいにね」
「十分滑稽に見えましたけど」
「それはよっぽどひどいのを読んだのね。ダメよ、帯に『泣ける』とか『清純』とか書いてるのは」
その指摘に私は黙り、そして、櫻子さんはまたため息をついていた。
私は縮こまる。
櫻子さんは、またワイングラスを空にしながら、続けた。
「恋愛小説には、2通りあるのよ」
「2通り?」
「ウソか、ホントウかっていう、2通り」
ウェイターがデザートを届けにやってくる。
私はコーヒーを、彼女はエスプレッソを頼んで、ウェイターの切り分けてくれたケーキを受け取る。
ケーキには、またまたお酒がよく効いていて、その香りに頭の芯がぐらついた。
おいしいけど、酔ってしまう。
「ウソか、ホントウか、ですか?」
「ウソの恋愛小説は、形がきれいに固まってるの、何パターンかにね。そのパターン通り、プロットに当てはめたら、イヤでも綺麗な恋愛小説が生まれるっていう寸法なわけ。たぶん、環ちゃんが読んだのは、そういうウソの恋愛小説ね」
恋愛小説にウソもホントウもあるのだろうか。
だけど、櫻子さんが言うと、妙に説得力が生まれてくる。
「ウソを出版していいんですか?」
「読者がそういうのを求めてるのよ。そういう小説読んで、気持ちのデトックスでもした気分になりたいんでしょうね。それに、ウソならではの軽さのおかげで誰にでも簡単に書けて、ブームが得られたら出版社にとってもいい小遣い稼ぎになるわけ。ドラマ化したら大儲けだしね」
「ホントウの恋愛小説は?」
「一言で言うと、血なまぐさい小説ね」
血なまぐさい。
レバーのような小説なんだろうか。
またまた、彼女の言葉の奥が見えなくなる。
「いろんな深い経験をしたなりの言葉の意味の深さや、文章の深さ、行間の味がある分、リアルすぎて、血なまぐさくなるのよね」
「そういう意味ですか」
「だから、読者も軽い気持ちで読むと、ものすごーく明るくなったり、暗くなっちゃうこともあるし、共感できるかもしれないけど、わかってもらえない部分が出てくるわね、どうして彼は彼女を捨てたのか、どうして、2人は別れを選んだのか、その理由に読者が納得できない場合もあるから、売れないって言われたら、そうね」
チーズケーキの最後の一口を食べ終えて、櫻子さんはエスプレッソを飲みながら、胸元のティファニーをいじっていた。
今まで翳り1つないプラチナのティファニーだったのに、急にそれに影が落ちたように、櫻子さんは暗くなったように思えた。
2人とも酔いすぎたのかな、そう思って私は酔い覚ましのコーヒーを飲み込んだ。
「でも私は、売れなくても、ホントウの恋愛小説の方が好きなんだけど…仕事上、そうもいかないわ」
ああ、疲れてたんだ。
仕事で上司ともめたのかな、なんて私は思いながら、フローズンヨーグルトピーチパイを口に運ぶ。
「いろいろ、厳しいんですね」
「まあね?とにかく、環ちゃんは、環ちゃんなりの何かを見つけて書いてくれたら嬉しいわ。無理して恋愛小説書かなくていいから、もっと自分のペースで書いてみなさいな。私も、ジャンルに対して少し口出ししすぎて、あなたの能力、狭めちゃったから。ごめんなさい」
「…謝られるとは思いませんでした」
「私だって、自分の非ぐらい認めるわよ。ねえ、それより」
タルト・タタンを同時に食べ始めたかと思うと、櫻子さんが目配せするようにして、私に呼びかけた。
「何ですか?」
「今日の環ちゃん、すごくいいわ」
櫻子さんの視線が変わる。
私の足元から頭の先までをじっと、これこそ、舐めるように見つめていた。
どきりとする。
その視線に釘付けになる。
ひじをついて、目を細めて、私をただただ見つめている櫻子さん。
ただただ見つめられているだけなのに、妙に恥ずかしい。
恥ずかしくて、その視線に吸い込まれそうな自分が、怖い。
「すごく、いい?」
バクバクとタルト・タタンのリンゴをかじりながら、私は平然を装って尋ねた。
私は多分、酔っている。
「ええ。だから、さっきから環ちゃん、周りから見つめられてたんじゃない」
ああ、あの視線は、借りてきたネコだったはずの、私に対してのものだったんだ。
そう思って、ちらっと左を覗くと、先ほどワインを注ぎにきた若いウェイターと目が合った。
彼はそっと目をそらして、別の客の方へと向かっていった。
そういえば、さっき、ワイングラスを持つとき、手が当たったっけ。
「ねえねえ、あの彼との間に、アバンチュールは生まれない?」
「アバンチュールって…」
死語ですよ、と棒読みでつぶやくと、『あら、そうかしら?』とお決まりの言葉が櫻子さんから飛び出す。
その辺りまでは、記憶があった。
私は、この時、酔いきっていた。
店を出てからの記憶があいまいだ。
電車に乗って、終点まで寝過ごしてしまい、見回りに来た駅員に起こされ、逆方面へ向かう終電にギリギリで飛び乗った。
いつの間にか、携帯電話にはメールが入っていた。
『もうアパートには着いたかしら?次は2週間後には会えると思うわ。今日の環ちゃん、本当にすごくよかったわ。もちろん、普段の環ちゃんも素敵よ。それじゃあ、おやすみなさい』
確認してすぐ、私はまた睡魔に襲われ、ゆっくりと眠りの中へと落ちていった。
悪い気分では、なかった。