君のいないBrandnewday
その電話が鳴り響いた時。
私は、ふいに、どうしてなのか嫌な予感を覚えた。
だから、このままこの電話をやり過ごしてしまおうか、と無視を決め込んでいた。
なのに、オーナーに促され、しぶしぶ重い腕を引き上げるように5コール目で取った受話器からは、妙に規律正しい年配の男性の声がした。
そして、彼は告げたのだ。
最愛の人の、死というものを。
大急ぎで病院に駆け付けたのは、突然の集中豪雨に見舞われた、夏の夕方の出来事だった。
私は、傘も差さず、店からエプロンも付けたまま、片道20分の距離を走りぬけた。
病院についた頃には、全身びしょぬれで、冷えた身体にクーラーの冷気が肌を刺す。
だけど、病院に先に着いていた彼女の身体は、雨にも濡れていなかったのに、私の体よりも、もっともっともっと冷たく、まるで凍りついたかのような冷たさを持っていた。
交通事故だった。
薄暗くなり始めた夕方、横断歩道を青信号で渡っていたはずの彼女の身体を、信号無視した車が跳ね飛ばし、引き裂いた。。
『肝臓が破裂していたため、出血も多く、もう手の施しようがなかったんです』
そう、担当した医者は、血まみれの手術着のまま、聞いてもいないのに淡々と答えてくれた。
すぐにまた救急のコールが鳴ったのか、看護婦の姿を見つけて、医者は術着を脱ぎ捨てながら走っていく。
私は1人、ただ立ち尽くす以外何もできなかった。
何が起こったのか、頭の中でうまく処理ができないままに、今、どうしてか病院にいる、そんな感じだったからだ。
明らかに動揺しているのが目に余ったのか、年配の看護婦が私にタオルを差し出しながら、声をかけてくれた。
「まあまあ、そんなに濡れて。立原さんの、お友達さん?」
「え…ああ、まあ、そんなところ、でしょうか」
あいまいな答え方に眉をひそめられたが、落胆ぶりだけは受け取ってもらえたのか、そのまま、私は霊安室へと連れて行かれた。
地下フロアの重々しい扉の向こうに、彼女はいた。
霊安室に安置された彼女は、顔立ちはそのままに、ただただ、静かに眠っているかのようだった。
白いシーツがかけられた胸から下は、見ない方がいいと暗に自分の心が訴えている。
柔らかな唇、長い睫毛、おでこのほくろ。
すべて彼女のものなのに。
しばらく見つめていたら、目に見えないオーラでも伝わって、『あら?ケイちゃん?』なんていう風に、目をこすりながらあくびをしながら、起きてくれるかもしれないのに。
だけどそこに、命だけは、宿っていない。
握った手の生あたたかさで、青白く透き通った肌で、聞こえない心臓の鼓動で、ようやく理解する。
彼女は、死んだのだ。
もう、この世に、彼女は、いないのだ。
動揺して、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中身が今度は白く染まっていく。
彼女の笑顔が、彼女の声が、彼女の全てが、私の中で、何度も何度も繰り返される。
そして、そのすべてが過去へと変化していくのを、私は感じていた。
「ケイちゃん?」
彼女と同じような、きょろりとした大きな瞳が私を見上げている。
彼女の、立原直子(たちはらなおこ)の子供である、立原竜二(たちはらりゅうじ)は、私の姿を見つけるなり、その手を止めた。
雨上がり特有のむっとした湿気が立ち込めている。
木々に囲まれた緑豊かな保育園の砂場で、湿った砂をスコップで山のように積み上げて水を流したりして遊んでいたらしい。
他の子供たちはもう親が迎えに来た後だったのか、最後の1人になっていた。
タイミング良くか、よくないのか、カラスが鳴く声が響き、続いて、近所の子供会の午後6時を告げる放送が鳴る。
まだ、誰もこの子に対して、『真実』を伝えてはいなかった。
保育園の先生たちも若い方ばかりだったので、何をどう伝えてはいいものか、で話し合っているうちに私が来てしまったらしい。
この役目は、先生たちのすることではないと思った。
私が、しなければならないことだと、私自身が、感じていた。
「おかあさんは?」
4歳のこの子に、お母さんはお仕事で遠くに行ったんだよ、なんていう冗談のようなウソは通じるはずがない。
だからこそ、『真実』を私は、伝えなければならないのだ。
「…うん」
「おしごと、まだなの?」
「竜二、ちゃんとケイちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてくれる?」
私はしゃがみこんで、私よりも1メートル近く低い竜二の両肩に手をのせた。
ただならぬ状況が飲み込めているのか、それとも、普段から聞きわけがいい子供だからか、竜二も真剣に見つめてくる。
「なに?」
「お母さん、死んだの」
「え?」
「もう…お母さんは…直子さんは、いないの…」
気がつくと、涙の膜で竜二の顔さえもかすんで見えていた。
竜二に伝えようと思う余り、自分の涙腺が緩んでしまうのは、大きな誤算だった。
竜二の前で泣くわけにはいかない、だって、この子が泣いた時、私が抱きしめてあげないと。
ずっとそう思っていたのに、気が付いたら、私の方が目元を濡らしていたのだから。
涙が止まらず、嗚咽まで漏れ始めたことに気がついた保育園の先生たちが、こちらへと急いで駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
「あ…大丈夫、です…?」
ふわりと。
ふわりと小さなあたたかい掌が、私の頭の上に置かれる。
竜二の掌だった。
その小さな小さな掌で、雨に濡れて湿って冷たくなっていた私の頭の上をなでてくれている。
「なかないで、ケイちゃん」
はっきりとした声で、告げられる。
そして私は、竜二のことをただ、抱きしめていた。
何が何やらわからないままに、いや、私が彼女の死をなかなか受け入れられていないからなのか。
朝起きてまず、もう直子さんはいないのだ、と言い聞かせている自分がいた。
それなのに、私が生活する空間には、直子さんがいた空気が存在しすぎていた。
キッチンには、三人お揃いで色違いの茶碗と箸と湯呑に、マグカップ。
冷蔵庫の中には、朝彼女が必ず飲んでいたメーカーのミネラルウォーターがキンキンに冷えていて。
その上には、彼女が晩酌で愛飲していたメーカーのビールが並んでいる。
テーブル横のマガジンラックには、彼女が読んでいたオレンジページが。
テーブルには、不器用なりに彼女が刺繍したというテーブルクロスが敷かれている。
椅子に掛けられた淡いクリーム色のカーデガンからは彼女のにおいがしていた。
彼女が生活しているかのように、まるで、彼女が生きているかのように、その空気を私には、追い出すことが出来なかった。
たったの1か月だというのに、彼女がいないこの空気に、私は堪えることが、出来なかった。
気がつけば泣いていて、気がつけば、彼女を探していた。
そのたびに、私は、落ち込んだ。
「…おはよう、ケイちゃん」
「あ、ああ…おはよう」
竜二はいつものように、朝8時前には起きてきて、自分から言われなくても歯を磨きに行き、私の作った朝ごはんを食べていた。
葬儀のある今日、本当は喪に服す、なんていう言葉があるように、生臭は避けるべきかも知れなかったけれど、子供の成長には代えられない。
ご飯とみそ汁にハムエッグとほうれん草のおひたしなんかを簡単に作って、私もテーブルにつく。
私は、ふいに、どうしてなのか嫌な予感を覚えた。
だから、このままこの電話をやり過ごしてしまおうか、と無視を決め込んでいた。
なのに、オーナーに促され、しぶしぶ重い腕を引き上げるように5コール目で取った受話器からは、妙に規律正しい年配の男性の声がした。
そして、彼は告げたのだ。
最愛の人の、死というものを。
大急ぎで病院に駆け付けたのは、突然の集中豪雨に見舞われた、夏の夕方の出来事だった。
私は、傘も差さず、店からエプロンも付けたまま、片道20分の距離を走りぬけた。
病院についた頃には、全身びしょぬれで、冷えた身体にクーラーの冷気が肌を刺す。
だけど、病院に先に着いていた彼女の身体は、雨にも濡れていなかったのに、私の体よりも、もっともっともっと冷たく、まるで凍りついたかのような冷たさを持っていた。
交通事故だった。
薄暗くなり始めた夕方、横断歩道を青信号で渡っていたはずの彼女の身体を、信号無視した車が跳ね飛ばし、引き裂いた。。
『肝臓が破裂していたため、出血も多く、もう手の施しようがなかったんです』
そう、担当した医者は、血まみれの手術着のまま、聞いてもいないのに淡々と答えてくれた。
すぐにまた救急のコールが鳴ったのか、看護婦の姿を見つけて、医者は術着を脱ぎ捨てながら走っていく。
私は1人、ただ立ち尽くす以外何もできなかった。
何が起こったのか、頭の中でうまく処理ができないままに、今、どうしてか病院にいる、そんな感じだったからだ。
明らかに動揺しているのが目に余ったのか、年配の看護婦が私にタオルを差し出しながら、声をかけてくれた。
「まあまあ、そんなに濡れて。立原さんの、お友達さん?」
「え…ああ、まあ、そんなところ、でしょうか」
あいまいな答え方に眉をひそめられたが、落胆ぶりだけは受け取ってもらえたのか、そのまま、私は霊安室へと連れて行かれた。
地下フロアの重々しい扉の向こうに、彼女はいた。
霊安室に安置された彼女は、顔立ちはそのままに、ただただ、静かに眠っているかのようだった。
白いシーツがかけられた胸から下は、見ない方がいいと暗に自分の心が訴えている。
柔らかな唇、長い睫毛、おでこのほくろ。
すべて彼女のものなのに。
しばらく見つめていたら、目に見えないオーラでも伝わって、『あら?ケイちゃん?』なんていう風に、目をこすりながらあくびをしながら、起きてくれるかもしれないのに。
だけどそこに、命だけは、宿っていない。
握った手の生あたたかさで、青白く透き通った肌で、聞こえない心臓の鼓動で、ようやく理解する。
彼女は、死んだのだ。
もう、この世に、彼女は、いないのだ。
動揺して、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中身が今度は白く染まっていく。
彼女の笑顔が、彼女の声が、彼女の全てが、私の中で、何度も何度も繰り返される。
そして、そのすべてが過去へと変化していくのを、私は感じていた。
「ケイちゃん?」
彼女と同じような、きょろりとした大きな瞳が私を見上げている。
彼女の、立原直子(たちはらなおこ)の子供である、立原竜二(たちはらりゅうじ)は、私の姿を見つけるなり、その手を止めた。
雨上がり特有のむっとした湿気が立ち込めている。
木々に囲まれた緑豊かな保育園の砂場で、湿った砂をスコップで山のように積み上げて水を流したりして遊んでいたらしい。
他の子供たちはもう親が迎えに来た後だったのか、最後の1人になっていた。
タイミング良くか、よくないのか、カラスが鳴く声が響き、続いて、近所の子供会の午後6時を告げる放送が鳴る。
まだ、誰もこの子に対して、『真実』を伝えてはいなかった。
保育園の先生たちも若い方ばかりだったので、何をどう伝えてはいいものか、で話し合っているうちに私が来てしまったらしい。
この役目は、先生たちのすることではないと思った。
私が、しなければならないことだと、私自身が、感じていた。
「おかあさんは?」
4歳のこの子に、お母さんはお仕事で遠くに行ったんだよ、なんていう冗談のようなウソは通じるはずがない。
だからこそ、『真実』を私は、伝えなければならないのだ。
「…うん」
「おしごと、まだなの?」
「竜二、ちゃんとケイちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてくれる?」
私はしゃがみこんで、私よりも1メートル近く低い竜二の両肩に手をのせた。
ただならぬ状況が飲み込めているのか、それとも、普段から聞きわけがいい子供だからか、竜二も真剣に見つめてくる。
「なに?」
「お母さん、死んだの」
「え?」
「もう…お母さんは…直子さんは、いないの…」
気がつくと、涙の膜で竜二の顔さえもかすんで見えていた。
竜二に伝えようと思う余り、自分の涙腺が緩んでしまうのは、大きな誤算だった。
竜二の前で泣くわけにはいかない、だって、この子が泣いた時、私が抱きしめてあげないと。
ずっとそう思っていたのに、気が付いたら、私の方が目元を濡らしていたのだから。
涙が止まらず、嗚咽まで漏れ始めたことに気がついた保育園の先生たちが、こちらへと急いで駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
「あ…大丈夫、です…?」
ふわりと。
ふわりと小さなあたたかい掌が、私の頭の上に置かれる。
竜二の掌だった。
その小さな小さな掌で、雨に濡れて湿って冷たくなっていた私の頭の上をなでてくれている。
「なかないで、ケイちゃん」
はっきりとした声で、告げられる。
そして私は、竜二のことをただ、抱きしめていた。
何が何やらわからないままに、いや、私が彼女の死をなかなか受け入れられていないからなのか。
朝起きてまず、もう直子さんはいないのだ、と言い聞かせている自分がいた。
それなのに、私が生活する空間には、直子さんがいた空気が存在しすぎていた。
キッチンには、三人お揃いで色違いの茶碗と箸と湯呑に、マグカップ。
冷蔵庫の中には、朝彼女が必ず飲んでいたメーカーのミネラルウォーターがキンキンに冷えていて。
その上には、彼女が晩酌で愛飲していたメーカーのビールが並んでいる。
テーブル横のマガジンラックには、彼女が読んでいたオレンジページが。
テーブルには、不器用なりに彼女が刺繍したというテーブルクロスが敷かれている。
椅子に掛けられた淡いクリーム色のカーデガンからは彼女のにおいがしていた。
彼女が生活しているかのように、まるで、彼女が生きているかのように、その空気を私には、追い出すことが出来なかった。
たったの1か月だというのに、彼女がいないこの空気に、私は堪えることが、出来なかった。
気がつけば泣いていて、気がつけば、彼女を探していた。
そのたびに、私は、落ち込んだ。
「…おはよう、ケイちゃん」
「あ、ああ…おはよう」
竜二はいつものように、朝8時前には起きてきて、自分から言われなくても歯を磨きに行き、私の作った朝ごはんを食べていた。
葬儀のある今日、本当は喪に服す、なんていう言葉があるように、生臭は避けるべきかも知れなかったけれど、子供の成長には代えられない。
ご飯とみそ汁にハムエッグとほうれん草のおひたしなんかを簡単に作って、私もテーブルにつく。
作品名:君のいないBrandnewday 作家名:奥谷紗耶