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Episode 1 住むか、住まないか。



朝、目を開けると白い天井がぼんやりと見えた。
「篠原さん、おはようございます」
元気の良い声と同時に、カーテンが開いた。
「では、これ。今日もお願いしますね」
と白いナース服を着た彼女は、体温計を俺に差し出した。


俺がここ、病院には2週間前ほどからいる。原因はストレスからくる吐き気、心因性嘔吐だ。今は、精神科の渋谷 汛(しぶや じん)先生のおかげで吐き気はおさまってきている。


ピピッと終了の合図が鳴ったので、俺は彼女に体温計を渡した。
「はい、ありがとうございます。……では、15時から渋谷先生のカウンセリングがありますので、5分前には、いつもの場所に来てください」
「はい、わかりました」
彼女は軽く会釈をし、病室から出て行った。


1日1回行われるカウンセリング。渋谷先生からの質問に答え、自分のストレスの原因を突き止めたりなどしたりする。
実は渋谷先生とは、病院で知り合ったわけではない。ずっと前から知っていた。だから、カウンセリングだからって特に緊張したりはしない。


「楓さん」
突然俺の名前、篠原 楓(しのはら かえで)を呼ぶ声がした。
「お祖母様…… 」
藍色の着物を着た女性は、俺の祖母にあたる人だ。
正直言って、この人は嫌いだ。
「着替えを持ってきましたよ」
「ありがとうございます」
1週間に1回は、こうして着替えを持ってくる。ただそれだけ。身体の調子を聞かれたり、お見舞いとして花やフルーツなど持ってきたりはしない。
いや、別に何か物が欲しいわけではない。ただ……ただ、少しだけでいいから……
「では、これで私は失礼しますね」
「……はい」
祖母は、俺が着た服を持っていつも通り部屋を出て行った。


15時、俺は渋谷先生がいる部屋に来た。
「失礼します」
ドアを3回ノックし、ドアノブに手をかけた。
白いベットに白い机。大きな窓から、日差しが差し込み部屋が明るい。
「やあ、篠原君。そこに座って」
渋谷先生が指を指した、黒い椅子に俺は腰を掛けた。
「今日はね、君の退院について話そうって思ってね」
ふいに風が吹き、渋谷先生のアッシュベージュ色の髪がなびく。
「退院……ですか」
「うん、希望の日にちあるかな? 」
あの家に帰るのか……。
家には、母がいる。会いたくない。祖母もいる。あまり顔を合わせたくない。あの家に帰ったら、きっと……また同じことが繰り返される。思い出した途端、吐き気におそわれた。
「篠原君、大丈夫? やっぱり、まだーー 」
「いえ、退院します」
俺は渋谷先生の言葉を遮った。迷惑はかけられない。それに、いつかは家に戻るのだから明日退院しようが、1週間後退院しようが関係ないだろう。
「先生、2週間ありがとうございました」
俺は椅子から立ち上がり、ドアの方へ向かった。
「……楓」
「その名前で呼ぶな」
俺のことを仕事のときは、篠原君。プライベートのときは楓と渋谷さんは使い分けていた。
「楓、俺は退院って言っただけで別にあの家に戻れって言ってはいないよ」
渋谷さんは、俺の言葉を無視し話し続ける。
「俺の家さ、部屋が1つ余ってるんだけど俺の家にくる?」
あの家に帰らなくていい? そう思った瞬間、気持ちが軽くなった。けど、渋谷さんにはそこまで迷惑をかけられない。
「いや……、渋谷さんに迷惑はかけられないからーー 」
「迷惑じゃない」
渋谷さんはさっきまでの穏やかな口調とうって変わって、大きな声で怒鳴るように言った。
「……これ、俺の住所と電話番号。気が向いたら、おいで」
白いメモ帳に書かれた文字。
「ありがとうございました。失礼しました」
渋谷さんの家は、実家からは結構離れていた。
行きたいか行きたくないかといえば、行きたい。
俺は、メモ帳に書かれた文字を眺めながら考えていた。
作品名:恋愛偏差値 32 作家名:時雨