月のあなた 上(5/5)
☽ (十四)1/2
「みかんちゃん、これから部活?」
ホームルームが終わり、それぞれが部活に向かう中、日向は蜜柑に声を掛けた。
「あ、ううん。今日は家の手伝いがあるから、お休みするよ」
「そうなんだ。…わたしも、今日は帰るよ」
ややためらいがちに、日向が言った。
「え? いいの?」
「部活決めてない人も結構いるから、まだ行かなくても問題ないよ」
その表情に、すがる様な必死さが見える。
「そ…。じゃあ帰ろっか」
返事を聞くなり、今度はぱっと明るくなる。
「うん」
それを見て、蜜柑も笑った。
*
稲荷の前に着いたとき、日向がもう一度言った。
「お昼のこと…ごめんね」
「いいよ。わたし、ひなちゃんがいうなら、なにもしないから」
「うん…ごめんなさい」
蜜柑は萎れる一方の友人を見て胸が痛くなった。
この子は、前向きなんじゃない。
前を向いて走っていないと、横に倒れてしまうんだ。
この子の好きな自転車の様に。
「でも」
蜜柑は、意を決して言った。
どうしてだろう。
この子の傷つき方をみていると、他人事だと思えないのは。
「もしわたしの目の前で、水凪君がひなちゃんになんかしたなら、わたし、言うから。ひなちゃんが何ていおうと、わたし水凪君に言うから」
やめてっていうから。
どうしてそんなことができるのって。
「みかんちゃん」
そのまま二人は、黙って俯いていた。
日向の両腕が伸びて、蜜柑の首の後ろに回った。
「…わ、わわ…?」
両親以外に抱きしめられるのは、蜜柑に取って初めてのことだった。
「ありがとう。みかんちゃん」
甘い香りがした。薔薇に近い香りだった。
「…どういたしまして」
蜜柑は言いながらも、だんだんと心拍数が上がるのを抑えきれなかった。
何しろ日向が抱き着いたまま、放そうとしないのである。
泣きだすのかと思ったが、そうでもない。
湯気の様に熱い息が、さっきから肩と首の間に当たっている。
(ちょっ、ちょっ、ちょっ…! これって、まさかそういうこと?)
あの祇居君になびかないのも、それなら納得できる。
いや納得しちゃだめだ。
だがそのまま日向は、蜜柑の左頬に唇を寄せて柔らかく音を鳴らすと、頭の位置を変えて右頬にも同じことをした。
(ああ…なんだ。)
また同じ距離に戻った友人の微笑を見て、蜜柑は安堵のため息を吐いた。
「欧米式だね」
「むこうじゃ本当にこうするんだよ」
照れて微笑み合った後、二人はそれぞれの自転車に跨り、手を振り合った。
*
蜜柑の後ろ姿がカーブの向こうに隠れた後、日向はすぐに自転車を降りて鞄の中から錠剤を取り出した。
それから、鳥居をくぐって、稲荷の祠の扉で顔を隠す様にしながら、その錠剤を二粒一気に呑み込んだ。
もはや自分の心音以外何も聞こえて居なかった。
相手の顔を見ない様にするので精一杯だった。
目の前がチカチカと赤く反転して、気づいたときには抱きしめていた。
甘い香りを思い切り吸い込んだ時に、一瞬だけ冷静さを取り戻せた。
冷や汗がこめかみから頬を幾条も流れ落ちた。
日向は肩で息をしながら襟元を右手で掴み、心臓が暴走を止めてくれるように必死で祈った。
「…は…」
薬が回ったのか、蜜柑との距離が追い付けないものになったためか。
鼓動が収まり、息が普通に出来る様になった。
顔をあげて、祠の中に居る古い狐の石像と眼が合う。
お前もいいかげん、化けの皮を脱いだらどうだ。
「…うそだ…」
日向は大きく息を吸い込むと、自転車に飛び乗った。そのまま車を追い越すようなスピードで走り出す。
「…お嬢さま! どうしました」
「日向さま、だいじょうぶですか?」
空から二羽の黒い影が舞い降りて来るが、日向は無言で自転車をこぎ続ける。
(違う、違う。)
坂に差し掛かった瞬間、テオドール二世は軋みを上げた。日向はそれでも馬に鞭打つように、立ち漕ぎになってペダルに全体重を叩きつける。
(私に羽根なんかついてないし。)
やがて丘の上の家に着くと、日向はランドナーを木の根元に放り出して、玄関に駆け込んだ。
(影になる能力も持ってない。)
「お姉ちゃん!」
土間で、靴を脱ぐのももどかしく感じながら、姉を呼ぶ。
「お姉ちゃん、おねーちゃん!」
だが姉からの返事はなく、台所に入ると、食卓の上に細い字で書置きがしてあるだけだった。
『急用有。すぐ戻ります。 穂乃華』
壁掛けからは、緑のフードコートが消えている。
日向は書置きのメモを握りしめると、一瞬途方に暮れたように辺りを見回していたが、すぐに
「ああ!」
叫んで二階へと駆け上がり、自室に飛び込んだ。
部屋に入ると、机の上に鞄を投げ出し、震える手で引き出しを開く。何冊か重ねたノートの一番下から、ピンク色の厚いものを取り出し〈親友〉の項を開く。
〈人の健やかなる時、上手くいっているとき、そばにいるのは簡単だ。でも病めるとき、追い詰められたとき、普通の人は去る。きっと、そのときも私のそばに立ってくれる人が、親友なのだ。〉
〈親友には、私を信じてほしい。私も、親友を信じる。でも私は、親友に私が吸血鬼だって知ってほしくない。私は一人の人間として、その人に親友と呼ばれたい。〉
直ぐに『TPG』を閉じた。
「わたし、なんてことを」
ノートの表紙を見ていた筈なのに、目の前が真っ暗になった。
その闇の奥に、誰かが向けてくるカッターが見える。
- ”来ないで! 来ないでよ!” -
嫌なものが、頭の内側に染みだしてくる。
英国の、半分地下に埋まった白い家。
その小さな窓から零れる光を見ながら、必死に祈った。
どうかもう一度、美津穂で学校に通えますように。
良い子になりますから。
もう二度と友達の血なんて欲しがりませんから。
だってわたしは、わたしのゆめは、これなんです。
これだけしかないんです。
毎日書きます。
描けることは、いつか現実になるんだそうです。
お日さま、お星さま、お月さま。今日はこれだけ書けました。
「うう――」
もう外に出ていいですか。
もう誰かと交わってもいいですか。
もう誰かと、友達になってもいいですか。
毎日書きます。全てにおいて書きます。自分がどうしたいか、どうするべきか、ほんの些細なくだらないことに対しても、自分がどうしたいかはっきりと規定します。そしてそこから離れません。
だから、どうか、わたしに、ふつうの生活を、させてください。
ふつうの――
- ”来ないでよ! この、ばけもの!”-
カッターの光は、遠ざからない。
禁断症状が治まっても。
どれだけ勉強しても。
どれだけ自転車をこいでも。
あの刃が追ってくる。
でもクラス分けの日、あの背中を見た時からその刃のことを、わたしは忘れた。
やっと会えた。
やっと…
――会えた、だって?
”それ以上近づいたら――、”
思い通りになる他人。
作品名:月のあなた 上(5/5) 作家名:熾(おき)