月のあなた 上(3/5)
朋友
八時二分、稲荷の祠前。
蜜柑は、道路側に背を向けると、四度目くらいの稲荷観察を開始した。
その動作は、まるで学者が「これはめずらしい三狐(みけつ)神像だ」などとと思ってでもいるような、もったいぶったものだった。
この祠、小さいながらそれなりに由来のあるお稲荷さんらしく、お神酒もおあげも新鮮なものが並んでおり、脇の立札に来歴まで書いてある。
(あー、来るかな。稲荷は稲生(いななり)、五穀豊穣の神様で、来てくれるよね。ひなちゃんは戦前ここに在った倉稲魂(うかのみたまの)神の社を移して、大丈夫。だって、あの子は江戸後期に彫刻された重要文化財で…)
そしてふと、今日の弁当が多めで、パンは大きめであることを思い出した。
弁当箱が空で返却され、パンは返品されなかった天変地異に、両親は動揺した。そして、俯いた蜜柑の口から「ともだちができた」と聞いた翌朝のリアクションは、打ち合わせたわけでもあるまいに、おなじだった。
(…ひなちゃんはおいなりさん、好きかな?)
狐の鼻と自分の鼻をくっつけそうにしながら、蜜柑は思った。
「みかんちゃーん!」
八時五分。
「!」
蜜柑はばねが放されたように後ろを振り向いた。
青い自転車が、真っ直ぐ伸びた道路の先から走ってくる。
「ひなちゃん」
ああちがうちがう。振り返るのもっとゆっくり!
あら、きたの、って感じで。
紙の文庫本でも開いてれば良かった! タブレットだとゲームやってるって思われるかもしれないし。わたしはともだちなんて、もともとつくろうとも思ってなかったけどあなたが手を振るから、あなたが手を――
「みかんちゃーん!」
「ひなちゃあーん!」
思いっきり手を振りかえしていた。
日向は音を立ててブレーキすると、少しうろたえたように訊いた。
「ごめんね、待った?」
「ううん。そんなことないよ」
まってたよ。
「ごめんね!」
「ううん」
ほんとうは、あなたのことずっと待ってた。
「…じゃあ…、行こう?」
「うん!」
*
初めて、自転車に乗れた時は風の中を泳ぐようだった。
隣に友だちが居て、一緒にこぐのは、空を飛んでいる様だった。
一面の曇り空だったが、雲の割れ間から、澄んだ柔らかな光が地上に射している。
五分ほど漕ぐと、田園地帯がだんだんと林に変わって行く。
それと同時に道路は小山に向かって傾斜を付け始める。
その傾斜が終わるころ、赤煉瓦の壁が北側に現れ始め、学園の敷地に繋がって行く。
レンガが途切れた所に、門と、あの本棟につながる路がある。
その道を進む。
今日はふたりで。
自転車を置き、校門をくぐり。
四階まで、下級生に対する不公平を言い合いながら登った。
教室に入る時の壁は、感じなかった。
その部屋に入ると、数人の女子がおはよー、と言ってくれた。二人も挨拶を返した。
そして、水琴窟の予鈴が鳴った。
*
「今日も一日通常の授業は無い。そして、敷地内を自由に移動していい」
吉田がタブレットを操作しつつ淡々と告げると、クラスが俄かに活気づく。
各自のタブレットには、メール受信のポップアップが表示される。
件名は、『エクスプローラとアッセンブリーについて』とあった。
「今送ったメールに添付したリンクに校舎の地図が二バージョン、午前、午後がある。午前中の各部屋に書かれているのは、その部屋を主催している教師の名前だ。興味のある授業を最低五つ以上見て回り、レポートを来週までに提出すること」
レポートと聞いて、いくつかの抗議の声が上がるが、吉田は頓着せず続けた。
「新入生に限っては図書館、武道館、劇場に関してガイダンス受講が義務付けられているから、結構忙しいぞ――午後はまた地図が変わり、各スペースで部活動、サークル活動の紹介と勧誘が行われる。興味のある順に見て回ってくれ」
午後の部にはレポートは有りますか、と一人が訊いた。
「任意だ。書きたい奴はかけばいい」
吉田はすげなく言った後、付け加えた。
「読みたくなった時に、読ませてもらう」
*
「にしてもひなちゃん、よくあんな先生のクラスで委員する気になったよねえ」
二限目と三限目の中休み、二人はまた中庭のベンチで休憩していた。
「んー。はじめから決めてたことだし? それに、そんなに苦手でもないんだよね。あの先生」
「あの人が苦手じゃないって、すごいね」
蜜柑はため息を吐いた。
「そうかな?」
日向は紙パックのジュースを飲みながら、空を見上げた。
「…なんだか、懐かしい感じ」
ストローから口を放すと、目を細めて呟く。
蜜柑は友人の横顔を、しげしげと見た。
「? この学校、来たことあるの?」
「ううん。…その、この円く切り取られた空をながめているのが」
「この空」
同じ角度で見上げる、白い塔の円い空。
こんな変わった地形は、そう見られるものでもない。
「ひなちゃん、小さな頃穴にでも落ちた事があるんじゃない?」
この活発な子なら、有りそうなことだと思った。
「穴、かあ…それにしては、なんだか心細い感じがしないんだよね」
「そっか、懐かしいんだもんね」
「でもほんのすこし悲しいんだよね。この感じ、なんていうのかな。…ちいさいころにさ、よく泣いて、泣き疲れたとき、そのあとふっと安心したりしなかった? 理由ないんだけど。そんなかんじ?」
「……」
蜜柑は円空から友人に目を戻した。
そして、
(――え?)
顔を太陽に向けて呟く日向が、突然大人に見えた。
「ひなちゃん、髪…」
地面に届くほど、長く――。
「あ! いた自爆委員長!」
「それから、パンの大甘堂のみかんさん」
蜜柑が自分が見たものを伝えようとした時、二人の女子が近づいてきた。
「あ――」
一瞬そちらをみて、また目を戻すと、日向はいつものショートカットに戻っている。
(あれ?)
蜜柑が首をかしげている間に、女子たちは近づいてきた。
ボーイッシュなベリーショートの女子の隣に、やや色の薄い、腰まで届くロングの白皙の女子。
「えーと、野村?」
「それと…風祭さん」
野村晶(あきら)と風祭法子(のりこ)。
日向と蜜柑は、それぞれ一人ずつの名前はなんとなく覚えていた。
「あたりー」
と晶が言い、法子は微笑んで頭を下げた。
「自爆委員長ってなに」
日向が早速口を尖らせた。
「だって行動が明らかに自爆テロじゃん。でも、そういうの嫌いじゃないぜ!」
ぐっじょぶ、と親指を立ててくる。
「あっちゃん、失礼だよ」
へへへ、と歯を出して笑う相方を、もう一方が窘める。その呼吸に、長い年月が感じられた。
「ふたりって、前からともだち? ひょっとして幼馴染とか?」
蜜柑が指摘すると、二人は目を丸くした。
「あたり! するどくない?」
「同じ小・中だったの」
二人でワンセットになっている言動が板についている。
蜜柑が少し羨ましくなって日向を見た時、日向も蜜柑のことを見ていた。
「「――」」
そして照れくさくなって、互いの眼を逸らす。
作品名:月のあなた 上(3/5) 作家名:熾(おき)