月のあなた 上(3/5)
丸坊主は、着替える前の祇居を見ていなかったらしく、明らかに狼狽した。
「えっ、ちが…あのさ…きみも…おんなのこだったの?」
この時はまだ、祇居があの「水凪祇居」だとは判明していない。
丸坊主が見ているのは、流れ落ちる長い黒髪を白い指で結わえ直している、性別不明の(というか美少女にしか見えない)袴姿の一年生だった。
「ご心配なく。ぼくは男です。先輩とはちがって」
「――なんだと」
タコの様に唇を突きだしていた丸坊主は、侮辱をうけたと分かるや茹で上がった。
「上までこい」
戦いの場は、板の間である一階剣道場から、この発泡体の敷かれた二階へと移って行く。
行きがかり上良子と、晶や法子などギャラリーも引き連れて。
丸坊主が練習していた部員に審判を頼んで、二人は正対する。
審判が合図するや、頭に血の登っていた丸坊主は、勢いで祇居に掴みかかった。
「あ、いた、いたた」
だが良子の時と同じく一瞬で後ろに回った祇居は、相手の後ろ手を締め上げていた。
「謝れ」
それは、傍から聞いてさえぞっとする声だった。
「わ、わかった…あやまる…あやま」
「あいわかった!」
その時割って入ったのが、柔道部員の中でも一際体の大きな海坊主だった。
「〈逆鱗〉水凪祇居だな――皆美に入ってくれたとは嬉しいぞ」
「……」
祇居は黙って柔道部長を見ていたが、海坊主はむしろ快活に提案した。
「どうだ水凪、どうせ下げさせる頭なら多い方がいいだろう。二、三年のレギュラー全員とあたってみるか」
「お好きにどうぞ」
祇居は表情を変えずに答えたという。
*
「あいつ、そんなこといったの…」
日向は、信じられない、という顔をした。
それから、
「げきりんって、なに?」
「ええと…」
法子が言葉に詰まると、蜜柑が補足した。
「龍の顎の下に付いてる鱗のことだよ。龍は、もとは大人しい生き物なんだけど、そこを触られると相手を殺しちゃうんだって」
「へええ」
「うーん、さすがみかん! ――まあとにかくだ」
分かっていないことが丸見えの返事をして、晶が話を進める。
「その後の立ち会いは正にちぎってはなげ、ちぎってはなげ」
「ごぼう抜きね」
「三本勝負で、二年の副将までが降参したところで、あたしがクラスメートを呼び出しに回ったって訳だ」
「なるほど…」
今四人が目にしているのは、最終試合ということだった。
三年かつ部長にして主将の海坊主の柔軟体操がおわり、審判を挟んで二人が向かい合う。
開始の合図前にすでに、海坊主は両手を熊の様に広げていた。
百九十センチ近い巨体の筋肉達磨が迫ってくる威圧感ときたら、半端ない。
(水凪君…)
それまでを見ていない蜜柑は、心配になって祇居を見た。だが、祇居の表情は、殆ど普段と変わらない穏やかさだった。
それが逆に、蜜柑の背筋をぞくり、とさせた。
(夫(そ)れ龍の蟲(むし)たるや、柔(じゅう)なるときは押(な)れて騎(の)るべきなり。)
昔『幻想動物事典』で読んだ『韓非子』の抜粋を思い出す。
「はじめ!」
一本目。
上から覆いかぶさるように掴みかかった海坊主は、空気を抱いていた。
そこから先は、最初の再現だった。
祇居は後ろから斜め後ろから手首を取り、締め上げる。
どのような仕組か、祇居が掴んだ手首をぐい、と下にさげるだけで、海坊主の膝が床に着く。
「そこまで!」
審判が二人を離れさせ、もう一度正対させる。
そこで海坊主は何を焦ったのか、あるいは相手の冷静さを奪おうとしたのか。
「女”でも”できるような技ばかりか」
無用の挑発をした。
祇居が明らかに表情を変えたのを、蜜柑は見た。
(然(しか)れども、其(そ)の喉下(こうか)に逆鱗の径尺(けいしゃく)なる有り。)
「はじめ!」
海坊主は、流石に今回は両手を拡げる様な事もせず、慎重に構え、自分から仕掛けもしなかった。
「ぉ――」
だがそんなことは関係なかった。
一瞬で。
祇居の左手は相手の右袖を、右手は左襟を捕えていた。海坊主の上体のバランスが崩れる。
いつ懐に入ったのか、だれも見えていなかった。
(若(も)し之(これ)に嬰(ふ)るるもの有らば――)
音を立てて足が払われ、腰が回転する。
(即ち必ず人を殺す。)
巨体がさかさに浮き、背中から、地面に叩き付けられた。
場内は森(しん)、となった。
「部長…」
「ぶちょーっ!」
だが柔道部が叫び、駆けだすと共に、ギャラリーからも歓声が上がる。
祇居は一礼すると、静かに退場して行った。
(※月のあなた 上(4/5)へ続く)
作品名:月のあなた 上(3/5) 作家名:熾(おき)