月のあなた 上(3/5)
☽ (十二)
二人が分かれ、また合流する地点は、丁度日向が昨日路を間違えた三叉路であった。
田園と野原によって区切られ、野原の道に面している部分には、古びた稲荷の祠と、小さな朱塗りの鳥居がもうけられている。
「じゃあ、あしたもここでね」
「うん、八時、五分にね」
数秒立った。
二人とも、自転車に跨ったまま、祠の前から離れようとしない。
「じゃあ」
「うん」
やはり、二人とも動かない。
その、何か言いだす前の落ち着かない微笑みを、稲荷の狐が静かに見ていた。
最初に動いたのは日向だった。
心臓がどきどきする。もしかしたら、自己紹介の時よりももっと。
(でもやらなくちゃ。これもやるって決めたんだから。)
「あのさ…」
鼻で息を吸いながら背筋を伸ばすと、ブレザーのポケットの上に手を当てた。
「みかんちゃん、CHAINやってる?!」
(言った!)
相手の反応はどう?
「…や」
やってないはずないじゃん――なんていう言葉を、蜜柑はコンマ一秒で蹴り飛ばした。
「やってるよ! ひなちゃんもやってる?」
中学の時だけど。
「うん」
さっきまではやってなかったけど。
「やろうよ!」
「ID交換しよ!」
日向はポケットから、蜜柑は鞄からそれぞれ携帯を取り出した。
蜜柑は久しぶりに、日向は初めて、アプリを起動する。
「ふりふり…」
ええと、どこだっけ? アップデートされてボタンの位置変わってる!
「ふりふり…」
ああ、ネットでちゃんと調べたのに、おちつけ、あたし!
二人はほぼ同時に〈ふりふり〉モードにたどり着いた。
「「ふりふり~」」
鈴でも振る様に、携帯を小さく振り合う。
それから、画面を見た。
ID名と〈ともだち登録しますか?〉のメッセージ。
〈はい〉を押した瞬間同時に、〈あなたのともだち申請が承認されました〉のメッセージが表示された。
「あ、あの…なにかあったら、これでね」
「うん! あ、でもわたし、映画とか見てるとき、きづかないかも」
「あ、ううん! わたしも、良く本読んでるとき、きづかないかも」
「そのときは電話ね」
「電話だよね」
それからやっと、日向と蜜柑はそれぞれの道に向かって漕ぎ出したが、すぐにどちらともなくブレーキをかけて振り返る。
そして、照れ笑いをしながら手を振り合った。
「また明日!」
「明日ね!」
*
日向は手を振って蜜柑と別れると、勢いよくランドナーのサドルに跨った。
「ああ――」
漕ぎながら、少しお尻を浮かせて、まるで昼寝から起きた猫の様に、腰から順に首までを小さく震わせた。
風が額からうなじまでを気持ちよく撫でる。
(ともだちが、できた…!)
夢は、現実になった。
なんという意味のある一日だったろう。
新しいクラス。学級委員。美しい校舎。
そして何より、少しはにかみ屋だけど勇気と、あたたかい笑顔を持つ、あたらしいともだち。
――大甘、蜜柑です!
あの声、あの赤い頬、あの必死の援護を、きっと自分はずっと忘れない。
「みかんちゃん」
日向が微笑みを浮かべながら呟いたとき、
「おじょうさん、そりゃ恋ってやつじゃありませんか」
男の声が、空から降って来た。
「ナナエ、そんな安っぽいものじゃない」
見晴らしのいい田園の道で一人きり。
日向はきのう自分で作った規則を忘れているとも知らず、返事をした。
得意げに、人差し指を立てて言う。
「両性があるかぎり、色恋は一生に何度でも起こる。でも、本当にこころが通い合える友人に出会えることは、一度起これば奇跡なんだ」
「穂乃華さまの受け売りですわね」
今度は、女の声が降りてくる。
それぞれ、男は右側に、女は左側の肩の上あたりを飛ぼうとする。これが二羽の定位置であった。
「う…ヤエ。ネタバレ禁止って」
「あら、ごめんあそばせ。わたくしも穂乃華さまのふぁんなものですから」
「ちぇっ、つまんねえなあ。じゃ、いったい惚れた腫れたってのは、何のためにあるんですかね」
ナナエは駄々をこねるように羽根をばたつかせる。
ヤエはつんと嘴を上に向けた。
「まちがいの為にあるんですよ」
「おめえは間違いで俺と一緒になったのかい」
「まちがいでなくてだれがあなたと連れ添えますか」
「ちょっと、人の頭越しにめおと漫才するのやめて?」
「ハイおじょうさん、なにね…こいつが」
「まあお嬢様、わたくし冗談のつもりはありませんことよ」
「や・め・て」
日向は憮然として言ったものの、昨日の様に追い払う気も起きない。
何しろもう友達は出来たのだ。
『TPG』には「一か月以内で」作ると記載したはずだが、一日で出来た。これはレコードである。
きっと昨日の不運は今日の幸運の為にあったのだ。お姉ちゃんに報告しよう。取り置きのポッチーを開けてベッドで食べよう。
自転車と、二羽の黒い鳥は、ゆったりと進んで行った。
*
やがて地平まで続くような、入日河の桜並木が左手に、道路と並行に見えてくる。
ここから続く坂を南東の丘に登って行けば、日向の自宅に着く。
だが、その日日向は、なんとなくこのまま帰りたくなくなって、北側へ、河の堤防へと至っていた。
陽が段々と傾き、オレンジの光は日向の背を押している。
河に沿って湧いている花雲は橙金と白の間の色に強く輝いて、空気の中に消えてしまいそうだ。
その空は、東から深い青に染まりつつあり、西側は、太陽の腕に抱かれつつある。
日向は、ふと右手を――南を見た。ぽつんと白い、上弦の月が姿を現しつつある。
「――」
日向は、しずかに胸に手を当てた。
「随分遠回りをなさるんで」
その切ない表情に気付いていないふりをして、ナナエがぼやいた。
「べつに、先に帰ってくれていいよ」
「どうせ、お腹でもすいたんでしょう」
女性陣からつれないリアクションを受けて、ナナエはやや傷つく。
「ひでえなあ。かりにもあっしはお嬢様の翼ですぜ。人間でいえば片腕。片腕が、こんな周りに人気も無い時に、お側を離れられますかって」
「めんどくさいなあ」
言っている内に、河に掛かる橋の一つに着いた。
古い橋で、車の通れる幅ではない。
「やった。だれもいない」
日向は中心までテオドール二世を引いて行くと、改めて西を見た。
眼下に広がるオレンジ色に煌めく河。
その両脇を埋め尽くす桜。
そして、緩やかに湾曲しながら地平まで流れていく川面が、地の端、山が谷へ切れ込む手前で、ルビーの雲に溶けていくのを眺めた。
鳥たちは、橋の手すりにつかまって、羽根を繕っていたが、ふと無言に耐え切れなくなったのか、ナナエが訊いた。
「ああそういえば、昨日の坊っちゃんとはどうなったんで?」
「ぼっちゃん?」
日向は、一瞬でしかめ面になった。
「あの嘘みたいにきれいなお坊ちゃんですよ。どうですあんなの」
「水凪祇居のことか」
かたきの様に言う。
「しい様、とおっしゃるんで。へえ。ま、そのしい様のことですね」
「あいつとは関わらない事にした」
作品名:月のあなた 上(3/5) 作家名:熾(おき)