月のあなた 上(1/5)
「ぃや」
耳を聾するほどのクラクションを鳴らしながら、バスの巨体がその子に迫っていた。
悲鳴のようなブレーキ音が商店街に響きわたる。
日向は思わず目を閉じる。
静寂があった。
やがて通行人のどよめく声が聞こえて来、クラクションの音が再び怒ったように二回、三回鳴らされた。
「ドアを開けてください!」
それは確かに、さっき聞いたばかりの声だった。
日向は目を開いた。
バスとその子の胸の間には、数十センチほどしかなかった。
祇居は、もう一度良く通る声で言った。
「ドアを開けてください!」
日向もまた立ち上がり、昇降ドアに駆け寄って叫んだ。
「開けて! 中に病人がいるんです!」
中の運転手は日向の顔を振り返り、そしてもう一度正面の祇居の顔を見る。
そして、二人の真剣さに気圧されて、ドアの開閉ボタンを押した。
「ありがとう」
祇居は云うと素早くドア側に回って、日向を少し押しのける形でバスの中に入った。
日向は心配になりながら開いたドアを見上げていたが、やがて祇居は、白い和服を着た女の子を抱きかかえて戻って来た。
女の子は目を閉じぐったりしていたが、少しだけ身体を動かせていた。
「無事です」
祇居が、歯を食いしばる様な表情で言った。
「やった! 運転手さん、ありがとうございました!」
日向が勢いよく頭を下げると、
「……」
運転手は、この上も無く不気味そうに顔を歪めて見返した。
バスの中では、何やら不穏なざわめきが起こっている。
「つきあってられるか」
運転手は首を振ると、苦い表情のまま無言でドアを閉め、バスを出発させた。
作品名:月のあなた 上(1/5) 作家名:熾(おき)