センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>
どうしてもセンパイとここに来たかったんです
ジーワジーワジーワジーワ
「……あぢい」
耳の穴から容赦なく浸食してくるセミの鳴き声に根負けして、とうとう倫は起き上がった。油がはねる音に似ているからアブラゼミ、とは良く言ったもので、この鳴き声を聞くだけで体感温度は優に3度は上昇している気がした。それでなくともエアコン無しの8月の室内は、朝っぱらからすでに30度を突破し、敷布団にはくっきり人型の寝汗ができているのだ。日曜の朝くらいゆっくり寝ていたいが仕方ない。倫は大きく2回伸びをして、掃き出し窓のカーテンをそっと開けた。
そっと開けたのには理由がある。襖を隔てた四畳半、和歌子の寝ている部屋はまだひっそり静まり返っていた。
アイツ、この状況でよく寝てられんな。
これが若さってもんかな、と、一つしか違わない倫はあきれつつも納得した。
ま、日曜くらい好きなだけ寝かせといてやるか。
元々はからきし朝に弱いはずなのに、平日は倫に合わせて6時に起きている。和歌子なりに精一杯気を使って頑張っている事は、倫にもよくわかっていた。
倫は足音を忍ばせ台所に足を踏み入れ、洗面台も兼ねている流しの蛇口をひねった。蛇口から溢れる生ぬるい水を手のひらですくいあげ、なるべく音をさせないよう、顔に染み込ませるようにして洗った。そうしながら、汗と一緒によこしまな思いも洗い流してしまえたらな、と思った。
何が「ほっとけねーから」だよ。面倒見のいい先輩気取ってんじゃねーよ。
蛇口をキュッと閉める。倫はそのままの姿勢で、排水溝をぼんやり眺めた。俯けた顔からしずくがぽたぽた垂れる。
結局アイツを側に置いときたいだけじゃねーか。
倫は、欲望を美談で覆い隠そうとしている自分が許せなかった。本心を押し殺し、そのくせ息を潜めて隣の気配を窺い、どうにもならない欲望に苛まれながら眠れぬ夜を過ごす。もう何回、こんな夜を過ごした事だろう。
立派な根性無しだよ、お前は。
わざと乱暴に、鼻がもげるかと思う程の勢いでタオルで顔をこする。倫はひとつ鼻をすすると、気合いだ!とばかりに両手で両頬を挟み込むようにパンと叩いた。鼻の奥がツーンと痛くなり、涙の気配がした。
しっかりしろよ先輩。せいぜいアイツの前ではいい先輩演じ続けてやれよ。
それくらいしかしてやれねーんだから。
自嘲の笑みが自然に湧いてきた。倫は醒めた笑いを顔に貼付けたまま、重い足取りで六畳間に戻った。
♢ ♢ ♢
昼間の蒸し暑さとは打って変わって、過ごしやすい夜だった。さらっと乾いた風が肌を撫で、汗ばんだ首筋からいい具合に熱気を奪っていってくれる。真っ黒なドームには黄色い三日月が張り付き、川にその影を映していた。
倫はさっきから煙草の煙で輪っかを作ろうと四苦八苦していた。ぱかあと口を開けたり逆にひょっとこのようにすぼませたり、部屋にいる和歌子に背中を向けているのをいいことに、子供じみた振る舞いに熱中していた。
「センパイ」
だから、いきなり背後から声をかけられ心底驚き、思わず舌を噛みそうになった。
み、見られたか?
「……あんだよ」
狼狽を押し隠そうとしたら、まるで脅しつけるような声音になってしまった。背中を向けているので表情はわからないが、和歌子がヒッとひるむ気配を感じた。
「あ、いや......おいしいすか、煙草?」
和歌子がめげずに声をかけてくれたので、内心ホッとした。そのせいか、「吸ってみるか?」なんて普段は言わない軽口が飛び出した。
和歌子は何も言わなかった。そして何も言わないまま、倫の左隣に立った。軽く面食らった倫は、和歌子の顔をまじまじと見つめた。
和歌子は妙に真剣なまなざしで、神妙にうなずいた。
もちろん冗談だった。煙すら嫌いな和歌子が吸うわけないことをわかって言った言葉だった。「冗談だよ」の一言で済む類いの話だった。だが、そんなこと口に出せない雰囲気が、切羽詰まった和歌子の表情から醸し出されていた。倫は黙って、パッケージから新しい煙草を一本取り出した。
だが和歌子は首を振って
「そ、それでいいっす」
と、倫の吸っている煙草を指差した。その指先が、ふるふる震えていた。
倫はいよいよ面食らった。和歌子は馬鹿みたいに生真面目な顔で、倫の口に挟まれた煙草を見つめている。
倫は、くわえていた煙草を黙って和歌子に差し出した。和歌子同様、倫の指先も震えていた。
何でもない何でもない何でもないこんなこと仲間内ならよくあること。
倫はポーカーフェイスを装い、念仏のように頭の中でそんなセリフを唱え続けた。だが和歌子が煙草を口にくわえるのが見えた瞬間、ポーカーフェイスの仮面がぱりんと破れそうになった。心臓がやたらと自己主張し、一度は引いたはずの汗がたらりと背中を伝った。
「……!!ごほ、ごほっ!!」
案の定、和歌子は盛大にむせた。どうやら思い切り肺に入れてしまったらしい。
「無理すんなよ」
倫は和歌子から煙草を取り返した。和歌子はしばらく苦しそうにげへげへ咳をしていたが、やがて怒ったように「ねるっす」と呟くと、顔も上げずに部屋に引っ込んでしまった。
何だったんだ、アイツ
倫はぽかんと取り残されたような気持ちで、閉まった襖を眺めた。中指と人差し指の間で、三分の一程の長さになったくだんの煙草が細い煙を吐き出し続けている。
倫は煙草をじっと見つめた。
ドクン、ドクン、ドクン
ゆっくりと、煙草を口元に近付けていく。指先の......いや、体全体の震えが伝わり、煙草の先から灰がぽろりと落ちた。
唇に、湿ったフィルターが張り付く感触がした。その途端、全身の血流が倍になったように感じた。
ズキン、ズキン、ズキン
胸の内側が痛い。まるで刺の生えた心臓に内側から攻撃されているようだ。
深呼吸の要領で、煙を肺の隅々にまで行き渡らせる。
和歌子の味がする。
そんなはずないのにそんな風に感じてしまう自分は、大馬鹿野郎の重症患者だ。
あまつさえ、いつもよりずっと短く、フィルターぎりぎりまで吸い切ってしまった自分は。
いっそ滑稽ですらある。
倫は、新しい煙草を吸う気にならず、かと言って部屋に戻る気にもならず、手すりにだらしなくもたれながら、ぽっかり浮かんだ三日月を、ただ眺め続けた。
♢ ♢ ♢
和歌子がぎこちない。
そう感じ始めたのは、和歌子との同居を再開してすぐの事だった。
例えば、朝。
以前なら「おはよーございます!」とうるさいくらいのテンションで、容赦なく襖を開け放ち、ずかずか部屋に乗り込んできたものだった。だが今は、襖の向こうから「開けていいすか?」と確認を取り、開けるやいなや口の中で何やら挨拶のようなものをごにょごにょ呟きながら、顔も上げずに台所へ行ってしまう。
食事の時もそうだ。目が合うとサッと視線を逸らせるくせに、倫がテレビに顔を向けると、横顔に痛いくらいの視線を感じる。
作品名:センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編> 作家名:サニーサイドアップ