センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <中編>
武闘派でならした倫は、特に後輩達から恐れられ、遠巻きにされていた。だけど和歌子は倫を心底怖いと思った事は一度も無かった。無愛想でぶっきらぼう、口は悪いしすぐ手が出る。だけど、誠也の元から逃げ出そうと決めたとき、唯一思い浮かんだのは倫だった。
それがすべてを物語っていた。
「ちっと煙草」
とうとう和歌子の方を一度も見ないまま、倫は煙草を掴んでベランダに出て行った。
窓の外、手すりに肘をついて煙草をくゆらせる、倫の背中。
何度も何度も思い出した光景。
和歌子は気付いた。もともと華奢だった倫の背中が、増々細くなっていることに。
センパイーー
上手く説明できない気持ちに急かされ、和歌子は倫の側に歩み寄った。
「センパイ、何で部屋の中で煙草吸わないんすか?」
もしかしてアタシのためですか?その言葉は胸に秘めた。
「……こっからの景色が好きなんだよ」
相変わらず倫は和歌子に一瞥もくれない。
全然構わなかった。ただ側で倫の声を聞いていたい。和歌子はそれだけを思った。
「アタシもいいすか、隣」
言ってしまってから、なぜだか無性に恥ずかしくなった。だけど一度口から出た言葉は取り消せない。和歌子は祈るような気持ちで倫の背中を見つめた。
「ベランダ崩れるぞ」
そう言いつつも倫は、左側に人一人分のスペースを空けてくれた。和歌子はベランダに恐る恐る足を踏み入れ、崩れそうもないことを確認すると、「失礼します」と言いながら倫の左隣に立った。
洗濯ハンガーを一つ吊るすのがやっとの狭いベランダに女が二人。自然触れ合う肩。
あ、そう言えばセンパイとこうして並ぶの初めてかも。
気付いてしまったら、もうどうしようもなくなった。
和歌子は、体の右半分が、正座し続けた後の痺れた足みたいに、感覚が間遠になっていくのを感じた。
倫は身じろぎもせず、煙草の煙を曇った夜空に吐き出し続けている。
漂うセーラムの香り。あれほど苦手だったはずなのに、心地よくさえ感じるのはなぜだろう。
和歌子は横目で右側を盗み見た。
煙草をくわえ、遠くを見つめる倫の横顔。腫れの引かない頬と、肌色のばんそうこう。自分が原因でつけてしまった傷。胸にざわざわ広がる後悔の中に、微かに甘ったるい感傷が含まれているのに気付いて、和歌子は驚いた。その傷が、自分と倫の間をつなぐ「特別な何か」であって欲しいと願うのは、思い上がりだろうか。
センパイ、アタシ、今まで生きてきた中で今の時間が一番幸せです。
和歌子は衝動的にそう言いそうになったが、言ってはいけないような気がして口をつぐんだ。
自分でも上手く説明できないもどかしさ。この気持ちをどう表現したらいいのか、そもそも表現するべきなのか。もてあました気持ちが胸の中でからから音をたてて回る。
一つ言えるのは、この時間がーーセーラムの香りに包まれ、倫と肩を寄せ合い、ただ川向こうの景色を眺め続けるーー永遠に続けばいいと願っている、その気持ちだけは紛れもない事実だった。
倫は煙草を吸い終わるまで、とうとう一言も発しなかった。
♢ ♢ ♢
騒々しい物音が、深い眠りの淵にいる和歌子の意識に微かに届いた。
「まじー寝過ごした!」
切羽詰まった倫の声が襖越しに響く。追いかけるように聞こえてくる、ドタバタした足音、ジャーという水音。夢が8割うつつが2割の世界を漂う和歌子の意識は、それを現実の物音として受け入れ切れずにいた。
「ワコ! 仕事行ってくる!」
倫のがなり声が、和歌子の惚けた脳みそをバチンと叩いた。
「……!? ここセンパイんチ!!」
和歌子はカッと目を見開くと、文字通り、その場に飛び起きた。
和歌子は四つん這いになって襖を開けた。六畳間に敷かれた布団はもぬけの殻で、倫はすでに玄関を出ようとしている所だった
「セ、センパイめしは?」
和歌子は挨拶をすっとばし、慌てて倫の背中に声をかけた。
「食ってる暇ねー!」
言葉と同時にバンとドアが閉まった。
カンカンカンカン
たちまち忙しない金属音が外階段から響く。
和歌子が目を覚ましてから数十秒。倫は嵐のように去っていった。
和歌子は四畳半に敷かれた布団に戻ると、ぺたりと座り込んだ。
和歌子はともかく倫が寝過ごすのは珍しい事だった。携帯のアラーム音にまったく気付かない程、二人は深く眠り込んでいたのだ。昨日の出来事が、二人に想像以上の負荷を与えていた証だった。
「センパイ、めし食わないで大丈夫かな」
誰もいない部屋で呟くひとりごとはーーひとりごとは大抵そういうものだがーー必要以上の物悲しさを連れてくる。和歌子は気晴らしにテレビでも観ようと六畳間に移動した。
敷きっぱなしの寝乱れた布団が、目覚めてすぐの慌ただしさを物語っていた。
すんません、センパイ。
和歌子は心の中で倫に謝った。だが、寝坊させてしまった後悔の中に、寝起きの顔を見られなくて良かったというホッとした気持ちが見え隠れしているのも事実だった。
和歌子は畳に両膝立ちをして、主のいない布団を見下ろした。
どういう感情が作用したのかわからないが、和歌子は敷布団の真ん中にそっと手を伸ばした。そこは微かに湿っぽく、はっきりとした温かみを残していた。要するに、それは人肌の温かさだった。
センパイの体温……!
心臓が、ドクン、と大きく一つ、高鳴った。
気付いたら、和歌子は倫の布団の真ん中に寝転がっていた。
枕に顔を埋め、タオルケットを両腕でかき抱く。エッセンシャルリッチダメージケアの香りとセーラムの匂いがたちまち和歌子の鼻腔に広がった。
体の奥底からぞく、ぞく、ぞく、と得体の知れないさざめきがわき上がって、頭の芯がじーんと痺れた。
センパイ、センパイ、センパイ……!!
和歌子はタオルケットを抱えたまま、布団の上をごろごろ転がり回った。
……!!
和歌子はハッと我に返って、がばと上半身を起こした。
アタシ……アタシ今何してた!?
心臓がドクドク脈打って、全身から冷や汗がどばっと吹き出した。「まさか」と「やっぱり」が胸の中でせめぎあう。気持ちの整理が付かない和歌子は、タオルケットを抱えたまま、呆然と虚空を見つめ続けた。
とりあえず、今夜どんな顔して帰宅した倫を迎えたらいいのか。それが和歌子の最重要課題となった。
ーー後編に続くーー
作品名:センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <中編> 作家名:サニーサイドアップ