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サニーサイドアップ
サニーサイドアップ
novelistID. 56539
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センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <中編>

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またここに置いてもらっていーんすか?





 明るい日差しの下で見るとそのアパートはいかにも安っぽく、やっつけ仕事で塗られたであろう青いペンキからは常に悲壮感が漂っていた。だけど今、その青は真夏の夜の闇にしっとり溶け込んで、ある種の荘厳さを醸し出していた。
 少なくとも和歌子の目にはそう映った。
 
 203号室のドアを開けると、懐かしい倫の部屋の匂いと入り混じって、醤油と生姜の焦げた香りが和歌子の鼻をくすぐった。
 香りの正体は、座卓の真ん中に手つかずのまま置いてある唐揚げだった。
「ああ、社長んちから貰ったんだよ」
 唐揚げを不思議そうに見つめる和歌子に、倫が言った。そのまま風呂場に入ると、ばしゃばしゃと水音をさせ始めた。どうやら鉄パイプを洗っているらしい。
 和歌子は黙って、部屋を見回した。
 足の裏に感じる、たわんだ畳の感触。相変わらす物の少ないそっけない部屋。料理の形跡のない台所。
 切望しすぎていっそ記憶ごと消し去りたいと願った、倫の部屋の気配。
 和歌子はさっきからーーアパートを見上げた時からーー胸が一杯で、口を開いたら言葉と一緒に涙が溢れてしまいそうだった。だから口を真一文字にぐっと結んで喉を閉じた。
 ふと思い立ち、狭い台所に足を踏み入れ、冷蔵庫のドアを開けてみる。ツンと鼻にくるすえた匂い。発泡酒の缶に挟まれ、それはあった。
 ラップに包まれた、豚キムチの皿。
 和歌子は冷蔵庫のドアを開けたまま、惚けた頭で過ぎた日数を数えてみた。
 
 あれからいち、にい、さん……。

「……捨てるの忘れてたんだよ」
 背後から急に声がしたので、和歌子は驚いて後ろを振り返った。
 いつの間にか倫が立っていた。顔を洗ったのだろう、べっとり付いていた血の跡はきれいさっぱり消えていたが、左頬は赤く腫れたままだ。
「食わなくて悪かった」
 倫はそう言うと、鉄パイプを台所の隅にごろんと転がし、六畳間に入っていった。
 胸の奥から熱い塊がぎゅうっとせり上げって来た。飛び出さないよう、溢れ出さないよう、和歌子は冷蔵庫の前にうずくまりながらその衝動に耐えた。
 やがて、六畳間からカサカサとビニールの擦れるような音が響いてきた。恐る恐る部屋に戻ってみると、あぐらをかいた倫が、帰る途中コンビニで買ってきたばんそうこうを切れた唇の端に貼ろうとしているところだった。
 和歌子は咄嗟に、倫の手からばんそうこうを取り上げた。丸く目を見張った倫に構わず、半ば強引に唇に貼付けた。その拍子に、指先が倫の腫れた左頬に触れた。
 ぱつぱつに膨らんだ、真っ赤な頬。その張りつめた感触、燃えるような熱さ......。
 
 もう限界だった。

「……ずびばぜんでじだっ!!」
 和歌子は土下座するような格好で、その場にひれ伏した。その拍子に、堪えていた涙が、とうとう嗚咽と一緒にぼたぼた溢れて落ちた。
「アダジッ、アダジッ、ゼンバイにひどいごどっ......!!」
 堰を切ったように溢れた涙が鼻を通って喉に落ち、言葉にならない濁音がその喉を震わす。
「ほんどにひどいごど……アダジ……ずびばぜん……ヒッグ」
 ずっと閉じ込めていた感情が解き放たれ、和歌子の全身を這うように駆け巡った。畳の上に落ちた涙が、瞬く間に小さな池を作る。
 倫は黙って和歌子の懺悔を聞いていた。やがてその嗚咽が途切れ途切れになると、小刻みに震える和歌子の頭にポンと片手を乗せ、言った。
「私こそ、悪かった」
 思いがけない言葉だった。和歌子はひゅうっと息を呑んだ。
「脅されてたんだろ、オマエ?」
 その言葉に和歌子はのっそり頭を上げた。だが頭の重さに首が耐え切れず、すぐにガクンとうなだれる。
「逃げだら……ゔぇっ……ゼンバイのごど……ヒッグ」
 おさまりかけていた嗚咽がまたぶり返した。顔と畳の間に、涙と鼻水と唾液がごちゃ混ぜになった透明な糸がたらんと垂れた。
「やっちまう、とか?」
 平板な声で倫が訊いた。和歌子の脳裏に誠也の下衆な笑い顔が蘇り、胸の奥がすっと冷たくなった。
「……ぞうっず」
 ずずっと鼻をすすり上げながら、肯定した。おぞましさに鳥肌が立つ。
「バーカ、私があんなのに大人しくやられるわけねーだろ」
 まるでからかうような軽い口調が、和歌子の胸に突き刺さった。弾かれたように顔を上げ、勢い込んでまくしたてる。
「そーかもしんないっすけど!でもあいつ何すっかわかんなかったから!」
 和歌子は必死に訴えた。
「万一そんな事になったらって思ったら……」
 だってセンパイが、アタシの大切なセンパイが、
「センパイがそんなことされたらアタシ……」
 アタシのセンパイが、アタシだけのセンパイが
 言葉が感情を煽った。和歌子は子供がいやいやをするように、激しく頭を振った。
 
 誠也のにやついた顔、散らばった豚キムチ、血の付いた鉄パイプ、セーラムの煙……
 
 混じり合う事の無い残像が、頭の中でマーブル模様を描く。
「落ち着けよ」
 倫の手のひらが和歌子の頭をがしっと押さえた。そしてそのまま、さっきとはまるで違う大雑把な手つきで、まるで大型犬にするように髪の毛をわしわしこねくり回し始めた。
 和歌子は目を白黒させながらも倫の手つきに身を委ねた。遠慮を微塵も感じさせない乱暴な扱いなのに、不思議にすっと気持ちが収まった。
「オマエさ、」
 和歌子の髪の毛に手を突っ込んだまま、倫はぼそりと呟いた。
 なんすか?と目顔で問うと、倫は和歌子から微妙に視線を逸らしながら、もしゃもしゃになった髪の毛から手を離した。
「まあ、あれだ」
 倫には珍しく歯切れが悪い。何事かを逡巡するように、点いてないテレビに視線を向けている。
 センパイ何言う気なんだろう。動物的勘で倫の緊張を察知した和歌子は、居住まいを正して、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「もうどこにも行くなよ」
 あさっての方を向いたまま放たれた言葉は、瞬時に壁を跳ね返り、ピンポイントに和歌子の心臓を貫いた。
 正座した膝がわななき、あごががくがく震える。真からの「恐怖」と「喜び」が呼び起こす体の反応は、まったく同じだという事に初めて気付いた。
 もう一回言って下さい。そう言いたいけど、喉元まで出かかってるけど、どうしても言えない。
 代わりに出た言葉は
「またここに置いてもらっていーんすか?」
 馬鹿みたいに語尾が震えた。
 倫はテレビに視線を向けたまま、さも迷惑だと言わんばかりに、ぶっきらぼうに言った。
「オマエ危なっかしくてほっとけねーからな。連れ戻しに行くたび大立ち回りしてたんじゃ私もさすがに体保たねーし」
 和歌子の胸の奥で、心臓がぎゅうぎゅう鳴った。頭の先から足のつま先まで、全身に温かな何かが満ちあふれていく。
 
 センパイ、アタシセンパイの側にいていいんすね。

 誰かが自分のために必死になり、誰かが自分を必要としてくれる。
 生まれてこのかた周囲からないがしろにされ続けてきた和歌子は、いつしかそれを疑問にも思わなくなっていた。それが自分の運命なんだと、10代にして早々に人生を諦めていた。
 和歌子は倫の横顔を見つめた。