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サニーサイドアップ
サニーサイドアップ
novelistID. 56539
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センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <前編>

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男を見る目が無いのはアタシの方だったね、センパイ





「お前演技上手いじゃん」

 すえた匂いの漂う薄汚いアパートの一室。
 通話の切れた携帯を耳に当てたまま呆然とする和歌子の側で、誠也は無精髭の生えた顔をぐにゃりと歪めた。
 和歌子の耳の奥で、今さっき倫から投げつけられた言葉がぐわんぐわんと反響している。倫を心底怒らせてしまったことは、声だけでわかった。怒鳴りも声を荒げもせず、淡々と、だが決然と和歌子を拒絶した、氷よりも冷たい言葉。
 和歌子は唯一の拠り所を自ら手放してしまった。
「てめーみてーなバカ女、ちゃんと飼育できんのは俺ぐれーなもんなんだよ」
 な、わかってんだろ?とわざとらしく優しげな手つきで頭を撫でてくる。倫に触れられた時とは違う、言いようの無いおぞましさに、背中が粟立った。涙を堪えている時特有のあの感覚ーー喉の奥に熱の塊がぎゅうっとせり上げってきて、目と鼻を圧迫するーー苦しさから解放されるには泣くしかないーーが襲ってきたが、絶対泣きたくなかった。泣いてなどやるもんか。
「また逃げ出そうなんて思うなよ。お前も知ってんだろ、俺のダチのこと」
 そう言われて、一瞬息が止まった。
「あいつら女◯◯すの慣れてっかんな。倫先輩確かに気合い入ってっけど、あいつらアホだから、俺が一言言えばマジで何すっかわかんねーぞ」
 ヒャヒャヒャと下衆な笑い声を上げる誠也。
 喉の奥が痙攣して、奥歯がカチカチ鳴った。視界が暗くなり、座っているのに貧血を起こしそうだ。
 倫は仲間から一目置かれた存在で、慕う者も多い。その倫に手を出したらただじゃすまない事は誠也もわかっているはずだ。だが、誠也とその取り巻きのタチの悪さは折り紙付きだ。誠也が本気かどうかはわからないが、万が一の事があったらそれこそ取り返しがつかない。冗談だと確信できない以上、和歌子が誠也に逆らうのは不可能だった。

 羞恥、諦め、憤怒ーーありとあらゆる負の感情をぐちゃぐちゃにミックスし、濾した後に残ったのは、抱え切れないほど大きな「後悔」だった。

 ああ、アタシはこの男から逃げらんない運命なんだ。アタシは本当に考え無しのバカだ。大バカだ。ごめんねセンパイ。あの時センパイの忠告、ちゃんと聞いとけばよかったね。

 ♢ ♢ ♢

 所々コンクリートの剥げた古びた体育館の裏手。煙草の吸い殻やゴミくずが散乱し、一見して不良生徒のたまり場とわかるその場所に、二人の少女が佇んでいる。
 制服のブレザーをだらしなく着崩し、緩くパーマがかかった茶髪を指先でくるくる弄びながら、和歌子はしきりに隣の倫に話しかけている。両頬にえくぼを浮かせた、満面の笑顔で。
 艶のあるストレートを腰近くまで垂らした倫は、コンクリートの壁に背中を預け、ぼんやり虚空を見つめている。その表情はどこか上の空だ。
「センパイ聞ーてます?」
「耳元でうっせーな聞こえてるよ」
「あの誠也が言ったんすよ! 『俺の女になんない?』アタシ頭痺れて倒れそうになったっすよ!」
「何回言うんだよそれ」
「何度でも言わせて下さいよ! あーマジ幸せだー」
 倫は壁から背中を浮かせ、だが顔は正面を向いたまま言った。
「……オマエさ、浮かれてるとこ水差すようだけど、さ」
「何すか?」
 倫は体ごと和歌子に向き直った。眉間にしわを寄せ、何かを耐えるような表情で。
「あいつやめとけよ」
「……何で?」
 和歌子はぽかんと口を開けた。
「何でって」
 倫はそこで一旦言葉を切り、地面に視線を落とした。だがすぐに顔を上げ和歌子を見据えると
「オマエが不幸になる未来しか見えねーからだよ!」
 声のトーンを上げ、一息に言った。いつもは白い頬が紅潮している。
「何言ってんすかー!」
 不本意だとばかりに、和歌子は声を張り上げた。
「確かに誠也ってガチで気合い入りまくりでやばいことたくさんしてっけど、そこがいいんじゃないすか!」
「そおか?」
 倫の疑問に、唇を尖らせムキになって反論する和歌子。
「そおっすよ! それに、お前の事大切にするって言ってくれたんすよ! アタシそれだけでメシ3杯いけるっすよ!」
「あいつろくでもねーぞ」
 真剣な表情で誠也を断罪する倫に、増々ムキになる和歌子。
「センパイ男見る目無いっすね! ……あ、もしかして妬いてるんすか? センパイ男いないっすもんね。だめですよ、いくらセンパイでも誠也は譲りませんからね」
「誰がいるかよあんなバカ男」
 もーいいよ好きにしな、と吐き捨て、倫はその場を後にした。
 誠也とともに自分も否定された気分の和歌子は、腹立ちまぎれに足下の空き缶を蹴飛ばした。


 男を見る目が無いのはアタシの方だったね、センパイ。 


 ♢ ♢ ♢

 この部屋に連れ戻されてから何日経ったのかな。
 せんべい布団に仰向けに寝転がり、常夜灯のオレンジ色をぼんやり眺めながら、和歌子は過ぎた日数を思い出そうとしてみた。
 1、2、3……少なくとも1週間は経ってる気がする。じゃあもうすぐ8月?それとももう入った?
 
 ……くだんない。
 
 ばかばかしくなり、考えるのをすぐにやめた。
 そんなこと知って、一体どうなると言うのだろう。この状況が少しは好転するとでも?それとも毎日の生活に少しは張り合いが出る?……ありえない、と思った。

 無理矢理開かされ、ろくに濡れてもいないのに無茶苦茶に突かれた下腹部がじんじん痛む。行為の後の残滓が溢れる気配があったが、後始末をする気も起きない。

 男は女を思うままに組み伏せ、女は男が悦ぶようされるまま言われるまま尽くす。それを繰り返した先にやっと、女にとっての真の快感が訪れる。それが男女の営みなんだと思ってた。和歌子はだから必死になって、誠也を受け入れ続けてきた。
 この苦痛の先に、身もとろけるような幸せな瞬間が待ってるんだ。世の中の人は皆この道を通るんだ。そう思っていた。
 だが、高2夏の初体験からちょうど2年。いまだに「その瞬間」は和歌子の元を訪れてくれない。
 行為の最中、和歌子は布団の上で身を固くして、誠也が果てるのを歯を食いしばってじっと待った。そしていつしかこう思うようになった。
 いつまで経っても感じないのは、自分が悪いから。きっとアタシは不感症なんだ、と。

 和歌子の隣で誠也が煙草を吸い始めた。セブンスターの匂いが、むっとする体臭と入り混じってあたりに漂う。和歌子は誠也に気付かれないよう、顔を背けて眉をひそめた。和歌子は煙草の匂いが嫌いだ。
 唐突に、ある情景が脳裏をかすめた。
 
 狭いベランダ、セミロングの黒髪、華奢な背中、白い指先、その指に挟まる細身の煙草ーー
 
 そう言えばセンパイ、いつもベランダで吸ってたっけ。雨の日も、蒸し暑い夜も。
 もしかしてアタシがいたから?アタシが煙草の煙ニガテだって知ってたから?

 ーー吐き出し窓の向こう、ぼろいベランダの手すりに頬杖を突く、細い背中ーーアタシが手放したーー

 目の奥がぐっと熱く重くなり、堪える間もなく目元から溢れた温かな涙が両頬を伝った。喉の奥が引きつって「ヒッ」と声が出た。
「てめ、何泣いてんだよ」
 誠也が苛立たしげに煙草をもみ消す。
「ウゼ」