My Funny Valentine
ひとりぼっちの練習スタジオで、気持ちのまま指を動かすカノは、人はこういう、言葉に出来ない気持ちを言葉にするために、歌を作るんだろうと思った。
その自分の心の中の形を思い描きながらカノは、ストラトのフレットの上で、他人のものではない、自分だけのフレーズを弾いていた。
13 ヨシコさん
空港の出発ロビーのベンチから、窓の外に並ぶ飛行機が見えた。力強くて冷たいエンジンの音が、厚い窓ガラスを通してわたしの耳に届いた。
出国審査のカウンターを抜けてしまうと、もう外には出れなかった。スーツケースを預けて、肩にかけたリュックだけになり身軽になってうれしいはずなのに、することがないわたしはただベンチに座って、外を見ていた。
目的のゲートに来るまでシャトルに乗った。車内には人もまばらで、皆黙って揺られていた。わたしは手すりに?まって、窓の外を見ていた。
外は雨だった。シャトルの窓から見る灰色の空は広く、どこまでも続いていて、わたしはポケットの中で、カノのリップを握りしめた。
あの後、カノに謝りたくて、何度も携帯を手に取ったけど、なんて謝ったらいいのかわからないわたしは、そのままにして、カノから逃げ出した。あんなに大切にしてきたつもりだったのに、それをわたしは、自分から壊してしまった。カノになにも言わないまま、ここまで来てしまった。
もう会えないんだと思うと、今までカノがわたしにくれた、たくさんのものが全部、このリップと同じくらい、大切なものだって、もう一度思ったわたしは、出発する人たちの集まり始めた搭乗ゲートのベンチの端で、ひとりで泣いた。そばにいる人たちに気づかれないように、顔を両手で覆うと、カノのリップをつけたわたしの唇が手のひらの中で、あの日の夕方の帰り道を思い出した。
カノ、楽しい思い出をありがとう、あの夜、カノと出会えて、本当にうれしかった。
わたしは、カノのことを好きになって、本当によかったと思った。
14 My Funny Valentine
春休みも終わりに近づいた頃、初めてのライブハウスに向けて部屋で練習をするカノのもとに、海外からの封筒が届いた。英語でカノの住所と名前が書いてあり、裏には、Yoshiko Fujiki Chicago United Statesとだけ書いてあった。
あれから、ヨシコさんの携帯が通じなくなっているのに気づいたカノが、もしかしたらと思い行った吉祥寺のあの場所では、民族楽器を持った外国人たちが彼らの国の歌を歌っていた。
学校の名簿を調べ、ヨシコさんの自宅に電話をした。母親らしきひとが出て、ああ、お友達なの、あの子はアメリカに行きましたけど、と言われた。
消えてしまったそのヨシコさんからの郵便に驚いて部屋に戻ったカノがその封筒を開けると、中には一枚のCDだけが入っていた。パッケージのされていない、古いCDだった。
そのCDをかけたカノは、あの曲だ、と思った。あの夜、北口のロータリーを通りかかったカノが初めて聞いたヨシコさんのトランペットは、このメロディーを奏でていた。
その曲は、寂しい曲だった。悲しくて、せつない曲だった。でもそのメロディーは、あの北口の銀行の前でカノが見た、ヨシコさんの涙に濡れた頬のようにきれいだった。
CDのケースの中に、小さく切られた紙が挟んであった。
その紙には、曲の歌詞が、ヨシコさんの小さな字で書いてあった。
わたしのおかしなヴァレンタイン
可愛くて面白いヴァレンタイン
わたしを心の底から笑わせる
あなたの顔を見ていると吹き出すし、写真写りはよくないけれど
わたしの大好きな芸術品
ギリシャ彫刻にはほど遠く
口元は少しだらしなく
言葉はスマートじゃない
でも、髪の毛一本変えないで
わたしのことが好きならそのままでいて
そうすれば毎日がヴァレンタインディになるから
暖かくなってきた風がカノの部屋のカーテンを揺らしていた。その窓から、向かいの公園の桜が散っているのが見えた。
作品名:My Funny Valentine 作家名:MF