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川の流れの、その音に寄せ

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神林氷音(かんばやしひね)はとにかく、目立たない子だった。
 どのくらい目立たないかといえば、大学に進学してからも仲の良かった高校時代の友人とは連絡を途切れさせることのなかった菱丘千波(ひしおかちなみ)が、すっかり彼女からメールの返ってこないことを忘れていたくらい――である。そういえば、高校時代はいつも隣の席だったじゃないか。千波は卒業直前に撮った写真を今更現像して(彼女は叔父の経営する写真屋のバイト長だ)、その時ふと思い出したのだった。
 目立たない割には、不思議な子だった。何が不思議というわけでもないのだけれど、おかしな噂があった。神林氷音は氷音川という川に捨てられていたのを拾われた子らしい、というものだ。千波の通っていた高校は家のすぐ近所だったが、氷音川という川は聞いたことがなかった。どうやら氷音はかなり遠い場所から高校まで通っていたようで、氷音川というのは彼女の実家の近くにある川なのだそうだ。神林氷音の小学校時代の同級生から誰かが聞いた話だという。
大方面白半分で言い出した冗談なのだろうが、彼女のことをろくに知らない生徒すら知っているほど噂は広まった。それは彼女本人が否定しなかったからである。――かと言って、肯定したわけでもないのだが。噂の真偽はともかく、そんな不思議な経歴の持ち主である彼女はそれでもふと忘れてしまうほど目立たない人間で、そして、高校を出てから誰も(同窓会は数回あったものの、彼女は一度も参加しなかった)彼女と連絡が取れたという話を聞かなかったのである。
元気? と何気なくメールを送ってみた。すぐにエラーメッセージが返ってくる。……そうだ、メールが届かなくなってから、私は氷音に連絡しようとするのをやめてしまって、そしていつの間にか忘れていたのだ。携帯が壊れただとか、アドレスを変えただとかでこういう状態になる友人は他にもいた。それでもその人たちは何かしらの方法で誰かと連絡がついて、集まりにも参加していたのだった。
なんだか、嫌な予感がしてきた。
今の今まで忘れていたくせにと思われるかもしれないが、気になってしまって仕方がない。友人の中に彼女と同じ大学に進学した人はいなかったか、とアドレス帳をめくる。……いや、そんな人がいたならきっとエラーメッセージが届いたときに連絡を取っていただろう。
 時計の針は深夜の二時を指していた。家族はもう皆寝付いたようである。静寂と秒針の音だけが自室を満たし、いつの間にかそこに自らの鼓動が重なった。
「――明日。電話したら、出るかな」
 小さく呟いて携帯を机の端に置く。
次の瞬間、バイブ音とアイドルの歌声が部屋に響き渡った。思わずきゃっとガラにもない声をあげた。――非通知。
「……もしもし?」
 氷音? と口にしかけて、やめる。そんな偶然があるはずはない。
「……やあ、元気?」
 もちろん、氷音ではない。男の声だった。
元気な、とは形容しがたい、今の自分よりもよっぽど『疲れ切った』声。しかし私はこの声をよく知っている。千波は眉を寄せて、不機嫌そうな声色を作った。
「あのさ。元気? じゃないよ。何時だと思ってるの、名空」
 名空聖(なぞらひじり)。元同級生、兼、腐れ縁。昔から気まぐれに呼び出してくる変な奴ではあったが、免許をとってからというものその癖は加速した。用件はいつも決まっている。
「今からドライブしない?」
「……私の話聞いてた?」
 車を持っていないくせにレンタカーで人を乗せて運転したがる。それも大抵大学の課題明け、つまり深夜だったり早朝だったり、に突然電話をかけてくるのだ。映像を編集するらしい、なんちゃらとかいう長い名前の学部に進学した彼は、どうやら切羽詰ると時間感覚も常識というやつもなくなってしまうタイプの人間だったらしい。高校時代までは至って普通の――突然の呼び出し自体は昔からあったものの――優等生だと思っていたのだけれど。
「え? ……あー、二時……。僕まだ夜の八時くらいのつもりだったんだけど……」
「それに、あんたが借りる車、禁煙車だから嫌だ」
 つっけんどんに千波が言うと、聖はふふっと笑った、ような気がした。
「それなら大丈夫。今日は喫煙車だから」
 溜息。わざと聞こえるように長く長く吐いてやる。これも友人のよしみだと乾かしたばかりの髪をかきあげて、千波は部屋の灯りをつけた。



「久しぶり」
 三十分も経たないうちに聖が家の前までやってきた。初夏とはいえ夜中はさすがに風が冷たい。上着の裾をぎゅっと握って、千波は呆れ顔をしてみせた。
「何度も言うけど、こういうの、彼女にするもんだと思う」
「はは……でも千波、いつも付き合ってくれるから、つい」
 思っていたよりも元気そうな表情で笑って、聖は助手席の扉を開けてやった。彼の借りてくる車はいつも真っ赤だ。凝り性な割には飽きっぽいらしく、彼の家にあるピアノも「昔やりたいって大騒ぎして買ってもらったのに、弾けるようになる前に放り出してしまった」らしいことを考えると、このドライブ趣味もいつまで続くかわからないが。千波は乗り込むや否や煙草を取り出す。
「元カノ元気?」
 火をつけながら問いかけると、彼はサイドブレーキを下ろしざまにこちらを向いて首を傾げた。
「ほら、あの、女優の。なんだっけ、すな……すなくら」
「リカ? どうだろうなあ、アクターコースは三年次以降、キャンパスが違うからね」
 砂倉リカ(すなくらりか)は他称・聖の元恋人である。他称というのはつまり、周りは皆そう思っていたが、本人たちはそれに言及したことがない、ということだ。彼女は高校も違っていたし、一つ上の学年で千波も会ったことはほとんどないのだが、とりわけ美人だったため女優になると言って演技を勉強する大学に進学したのは地元では有名な話だった。千波のバイト先である写真屋で叔父がオーディション用の写真を撮ったこともある。本人の了承を得てその写真を店先に飾ったら、毎日人が押し寄せて大変だったとか。
 そのため、そんなリカと同じ大学に進学した聖が注目の的になった。二人でいるシーンがたびたび目撃され(千波と一緒にいるところを見ても誰も何も言わないくせに)、たちまち恋人同士に違いないという噂がたったのだ。
 当時も今も、聖は何も言わない。「付き合ってたの?」と聞いても何も言わずに笑う。否定も肯定もしないから野次馬は肯定ととったのだが。
――肯定も否定もしない。
 ふとその言葉が引っかかって、千波は灰を落とす手を止めた。
「今日は海を見に行こうと思って……、千波?」
「氷音」
「え?」
「氷音、笑ってなかった」
 噂の真偽を問われると、聖は決まって笑っていた。
 一方で、噂の真偽を問われるとき、氷音は決まって俯いた。
 肯定もせず否定もせず、ただ、黙って俯いていた。
「きっと、氷音、あんな噂をされるの、嫌だったんだ。だから、あんな馬鹿馬鹿しい話で騒ぎ立てる私たちのこと嫌いだったから、氷音、私たちと縁、切ったんだ、きっと」
「何? 氷音って、神林さん?」