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心の傷から学ぶこと

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中学3年生までの私は素直じゃなくて、ひねくれ者だった。自分の悩みや愚痴を誰にも言えなくていつも自分の中にため込んでいた。両親のことが大嫌いで自分のことは一回も話したことはない。自分の心のふたを閉めて他人を絶対中には入れようとしなかった。「人を信用する」ということを全く知らなかったのだ。誰かに甘えることもなく、頼られてばっかりで責任感が強くてただひたすらテニスを頑張っていた。決してテニスが好きだったわけではない。何度もやめようと思った。両親の重圧に耐えられず「死にたい」とまで思った。妹が二人いたのだが、仲が悪くて喧嘩ばかりでライバルだったため大嫌いだった。こんな私は高校進学の時に寮のある高校へ進学しようと決心した。理由はテニスの技術向上が一番だったが、ただ、今の環境から逃れたかったというのが本心である。そんな私がどんな人生を送ってきたか紹介していきたいと思う。
 私は県外生だったため、三月の終わりから入寮していた。部活の同期は寮生が四人、自宅生が二人いた。誰も知らないところに一人で行ったため全員が初対面で、私だけが関東出身だった。最初に越えなければならなかったのが言葉の壁だった。同じ日本に住んでいるのに関東と関西では言葉が違い、受け取り方や価値観が全く違って私だけなかなかなじめずに関西出身の友達とよくケンカしていた。お互いテニスで戦績を残していたため人一倍気が強くなかなか仲良くなれなかった。学校でも最初は友達作りが面倒で全然作らなかったが、自然と友達は増えていったので問題はなかった。だが、慣れない土地、仲良くなれない同期、上下関係などいろいろな問題が積み重なって五月にストレス性胃腸炎にかかってしまった。私自身、人に相談したりしなかったので、なかなか発散できずにいたのが原因であった。それを見かねて私を心配してくれた先輩がいた。「何か困ったことがあったら私に話してね。」そういわれたのが初めてだったため、すぐに先輩にいろいろなことを話した。生まれて初めてだったといっても過言ではない。それからはなんとかやっていけて、団体戦のメンバーにも選ばれて、全国大会でも優勝することができた。
 二年生になり、インターハイのメンバーに入れるところだったが腰の骨を疲労骨折して外されてしまった。仕方のなかったことではあったが、悔しかった。ちょうどその時期からであろうか、同期に追い抜かされ始めたのは。原因は一年生の後半に団体戦はダブルスを任されていたのでシングルの練習をする機会が全くなかったことと部活をまとめていく役割を先輩から任されて自分の練習になかなか集中できなかったため伸びなかったのだ。どんどんシングルスで勝てなくなって、上手くならなくて私自身「シングルは勝てないから」と思いこむようになっていって諦めるようになってしまったのだ。そうこうしている間に先輩方が引退して代交代となり私たちの中からキャプテンを選ばなければならなかった。候補は私とA子で、私はやりたくなかったのだがA子はやりたかったのである。だが顧問の先生や先輩方は私がキャプテンにふさわしいといってくれていて、何回も説得された。A子とはダブルスを組んでいて一番仲が良かったのだが、やりたくない私がキャプテンに選ばれたので、私のことを妬んでいたのである。キャプテンになってからは責任と強豪校であることのプレッシャー、チームつくりなどに追われて、ますます自分のことに集中できなくなってしまった。また、悩み事や相談したいことも増えて、一番仲の良かったA子に愚痴を言ったり相談をしていた。ある時、顧問の先生から呼び出された。「A子の部ノートにこんなことが書いてあったのだが、本当のことか?」と言われたのだ。(部ノートとは、日誌みたいなもので毎日書いて顧問の先生に提出するものである。)見せられたノートにはこう記してあった。「キャプテン落とされた私に先生の愚痴を言ったり部活のことで相談をしてきたりするなんてありえない。そんなことを言うなら私がやりたかった。なった以上、責任を持ってやってほしい。これを読んで私は凍り付いた。普段全く何も言わずに話を聞いてくれていたにもかかわらず、こんなことを書かれていて、ショックを受けたし、「裏切られた。同期の中には私を助けてくれる人はいないのか」と思った。それ以来、同期には頼らず何でも自分で抱え込んでやっていた。そして三月の全国大会が近付くにつれて、同期の協力がないまま部活はまとまらず、調子も上がらないため私は精神的に追い込まれてストレス性の胃腸炎にかかり大会前にはテニスができなくなってしまった。
 三年生になってからは新しい一年生が入ってきたのだが、問題児が多くてますます悩みの種が増えていった。先輩は卒業してしまったから、相談する相手もいない。どんどん自分で自分を追い込んでしまいインターハイ前に過度なストレスが爆発して自律神経失調症と対人恐怖症になってしまいテニスもできない学校にも行けなくなってしまった。自宅と寮と大会会場を往復居ながらなんとか全国大会に出たものの、まともに練習して出ることができなかったから、ものすごい後悔が大きかった。引退してからはなんとか部活にも学校にも通えるようになって、治ったかと思った。
 だが、大学に入ってからは部活がトラウマになってしまい、毎日のように体調不良を起こした。「これは、やばい」と思いすぐに心療内科に通った。診断はPTSD(トラウマ)と適応障害というものだった。私は絶望的だった。せっかくの大学生活をまた病気にかかって、まともに生活ができないのだから。また、おばあちゃんの家で暮らしていたのだが、食生活、性格が合わず部屋に閉じこもったり家に帰りたくなくて夜中まで遊んでいたりしたのだ。そのおかげで病状はどんどん悪化してついには、抑うつ病になってしまった。医者からは自宅静養、休学を余儀なくされて現在も静養している。
作品名:心の傷から学ぶこと 作家名:神崎蓮