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みやこたまち
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収穫-コーヒースタンドの女の子との出会いと地獄についての記録

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 あなたは激しい息の下から、慰めてみる。彼女は深く澄んだ瞳の中をあなたにむける。陽炎の立つ黒い瞳だった。あなたは、今度は彼女の鼻を見つめている。意外なほど尖った鼻先は、磁器のように白く儚げにみえる。

「いいんです。こんなことはよくあることなんです」

 彼女はそう言って、立ち上がる。前掛けの左上から右下にかけて生乾きの一直線の黒い染みが走っている。

「良かったらコーヒーをもういっぱい貰えないだろうか?」

「もちろんです。砂糖とミルクはおつけしますか?」

「いや。ただ出来ればさっきよりも濃くて熱いブラックを」

「少々、お待ちください」

 彼女は業務用のコーヒーメーカーに背を向け、戸棚からコーヒーサイホンを取り出すと、アルコールランプに火を点けた。

「懐かしいね。ただサイホンは加減が難しい」

「私は、プロですから」

 沸騰するまでの間に、彼女は豆を挽いている。戸惑いはどこにもなかった。あなたは、彼女をスタンドから連れだすのは諦めようと思った。彼女の喜びも悲しみも成長も、つまりは彼女にとって必要な世界の全ては、この青と白のストライプの屋根の下にあるのだから。

 沸騰するとアルコールランプを少しずらし、粉を入れたロウトをサイホンに挿す。すかさずアルコールランプを戻すと、沸騰した湯が昇って、粉を持ち上げていく。彼女は特殊な形状のヘラを、熟練した手つきで動かす。しばらくぼごぼと沸き立つ黒い熱湯を睨んで、さらにヘラを操る。

「地獄のように黒く熱いコーヒー」

 中二階の天井に阻まれて、決して見えないはずのエンジンに、地獄が湾曲して写り込んでいる事にあなたは気づき、弾かれたように振り返る。目の高さでは、天井に隠れて決して見えないはずのあの銀色が、黒い液体を湛えたサイホンにはっきりと映っていた。しかもそれは、テラスチェアから見たときから、90度は転回している。ワイヤーが絶望的に軋んでいる。巨大なファンは今にも回転を始めそうだ。彼女はコーヒーを見ているのだろうか。それとも、絶望的に巨大なあのエンジンを見ているのだろうか。

「どうぞ。熱くて苦いですよ」

 彼女は初めて微笑む。まるで、仕事やプライベートでどんなつらい事があっても、コーヒーを客に差し出す時には必ずそうしなければならないという義務感が、長年の経験によって自然な表情とみまごうほどに熟達したのだというような笑顔だった。あなたは、カップを持つ右手の人指し指、親指の先と、カップに近づけた顔面と、カップに触れた唇と、コーヒーが通過した舌から喉、食道の全てに火傷をおった。

「旨いよ。なぜこんなスタンドで働いているんだい。自分の店を持ちたいとは思わないのかい?」

 あなたは、幾度も咳払いしてその都度痛みに身悶えしながらも、そう言ってみる。

「こんな、わけのわからないエンジンのあるホールのカウンターなんかじゃなくさ」

「私にはここしかないんです。でもエンジンって何のことですか?」

「エンジンさ。さっきまで君も見ていた。あの吹き抜けの上に引っ掛かってゆらゆら揺れている巨大なジェットエンジン。頭の上にある不安定な巨大物体に、人は耐えることが出来ない。ストレスになるんだ。いつ落ちるか。誰の上に落ちるか。そして、それが長く続くと、そんなストレスを抱え続けることに耐えられなくなる。そしてこう思うようになる。早く落ちろ。今、落ちろ。落ちないなら俺が落としてやる。俺の上に落としてやる」

「エンジンなんてありません。私は毎日ここに通ってきてるんですが一度もそんな、エンジンなんて見たことはありません」

「でも君は見ていた。さっき、この地獄を召還していたときに、君の黒い瞳の中にはこの黒い地獄と、その地獄に二重写しになった銀色のエンジンが、確かに写っていた。目をそらしちゃいけない。君は見ていた。ただ、見ようとしていないだけなんだ」

「いい加減にしてください。失礼ですけど、少しお疲れのようですね」

「なんだって。俺がおかしいっていうのか。今だって確かにあの巨大なものはホールの上をゆっくりと回転しているんだぞ」

 彼女は後ずさりすると、腕を組んできつく目を閉じた。足で何拍子か分からないリズムを刻みながら。彼女はホールの空間を思い出していたのだ。その場で! そう。彼女は、スタンドから出て確かめるという方法をとらなかった。そしてあなたは、そういう彼女に対して苛立ち始めていた。

「ああ」と彼女は朗らかに笑う。あなたは彼女の精神の均衡を疑いはじめる。

「あれは、エアコンです」

「何だって? あんなエアコンがあるものか。ワイヤーを軋ませてぐるぐる回っていんだぞ。あんなワイヤーなんて、いつまでもつか」

「エアコンです。回転するのは、冷風をまんべんなく吹き抜けに行き渡らせる機能のためなんですよ。あなたの知らないエアコンだって世の中にはあるんです。いろいろな事が世の中にはあるんですから」

「いや、しかし、だが。そう、そうかもしれない……」

 あなたはとぼとぼとエスカレーターを下っていく。手には、熱いはずのカップをしっかりと握りしめたまま。そして、真っ直ぐにエントランスを目指す。

 扉を出るとき、あなたは振り向いて見上げる。それは吹き出し口と吹き込み口のついた大きなエアコンにしか、見えなかっただろう。

 ぶつぶつと何事かをつぶやきながら、あなたは出ていく。

 その瞬間から、あなたは、このイベントホールの、エントランスホールの、常連の一人となったのだ。

 私は、口元から笑みを消すことも忘れて、ノウトを取り出し、じらすようにゆっくりと万年筆のキャップを外して、次のように書き入れた。

「自虐的なサディステックマゾヒスト。定位置は、中二階噴水脇の、カウンターに背をむける席。失われたプライド。得られない恋。二週間以上の空白には死」

 それから私は、本日の新規常連者リストを読み返し、本日分の出欠を確認する。くゆらした煙草の煙の先で、銀色のジェットエンジンがゆっくりと揺れている。

「早くこい。私の真上に落ちてこい」

それは、絶望的な軋みと共に、今もゆっくりと回転しながら、落下までの時を刻んでいる。