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みやこたまち
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収穫-コーヒースタンドの女の子との出会いと地獄についての記録

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あなたは、駅前のイベントホールに足を踏み入れてしまった。待ち合わせをしている訳でもなく、ましてや、エントランスにべたべたと貼られていたポスター(企画展示室に於ける"シム・シメール原画展")に別段の興味を抱いたわけでもなかったのに。

 エントランスロビーは割と賑わってはいないな。などと思いながら、あなたは中二階のコーヒースタンドへ向かった。本当は、「ここが賑わっているかもしれない」などと考えていたわけではなかった。ただ、テラステーブルの白が、周囲を取り囲む観葉植物の緑よりも目立っているなと感じ、単に「がらがらだな」と思っただけだった筈なのに、あなたは何故だか、「思ったほど賑わってはいない」などと妙に取り澄ました寸評を採用してしまった。

 あなたを待っていたかのように、ゆっくりと動きはじめるエスカレーターの、地平線上に現れるはずのステンドグラスを、あなたは先取りして思い描き、自分の、取り繕ったかのような気分を紛らわせようと、首を伸ばした。 エスカレーターが尽きたところで前を見ると、やはりそこにはステンドグラスが嵌まっていた。お定まりのイコン画。絵画とはまるで無関係に画面を仕切っている真鍮縁は黒ずんでいる。あなたは幾らかほっとしてコーヒースタンドへ向かう。途中に、無人島のように植栽された小さな噴水がある。一円、五円、十円が、底を埋め尽くした、小さなポンプ循環式の噴水にすぎない。トポトポと雫が撥ねている池の周囲に人影は無い。些細な飛沫が、かえって気になるからだろう。熱いのか、冷たいのか、痒いのか、痛いのか、甘えられているのか、嫌われているのかといった、相反する感情で区別できる刺激ならば、人は潔くそれを受け入れることも出来る。だが、刺激を受けたのかどうかすら自分で判断しなければならいほどささやかな刺激では、人はかえって、疲れ、苛立つのだろう。あなたは、実際にほんの一時、小さな噴水の飛沫を浴びてみる。そしてやはり訳のわからない苛立ちが芽生えはじめたのを潮時に、改めてスタンドへ向かった。スタンドの日除けテントは、青と白とのストライプだ。

「ホットコーヒー一つ」

「お砂糖とミルクはおつけしますか?」

「地獄のように黒く、後悔のように苦く、嫉妬のように熱いブラックで」

 店員はオレンジと白のストライプのブラウスを来て、紙の帽子の下で長い髪をきちんと一つに結んで垂らしていたが、フリルのついた前掛けには、左上から右下にむかって一直線の染みがあり、その周囲には、はね上げられた無数の飛沫の痕跡が残っている。あなたは彼女の目をちらりと見る。きっぱりとした瞳だ。だが、コーヒーを注ぐ手は震えていた。業務用のサーバーはおそらく彼女には重たすぎたのだ。頬が上気した。一瞬かみしめた奥歯が、彼女の輪郭を健気にする。あなたは、幸せをため息に溶かして吐き出してしまう。彼女の美しさは、今日の失敗と、それに負けまいとする意思との両方がなければ成り立たないものだった。しかも、その二つは、彼女の職場であるところの、このコーヒースタンドの中でだけ生まれる類のものなのだ。例えば、あなたがいくら彼女の美しさを愛したとしても、それを所有する事は出来ない。だが、その美しさに触れることが出来たという幸せだけは、あなたの心に、確実に刻まれた。彼女の面影とともに。

「元気で。それじゃ」

 あなたは、まるでコーヒーをじかに握っているかと思うほど熱いカップを持ち、指先が焼け爛れていくのを耐える事で、今日のこの数秒間を特別なものにしようと躍起になっていたが、すぐに右から左へとカップを持ち替えてしまう。照れたように笑うあなたの顔は醜悪だ。エスカレータを下ってくる。閑散としたエントランスホールは、最上階までの吹き抜けで、圧倒的に光が足りない。立ち行く人々も、座る人々も、その声も、どれもが滑らかさを欠いているように見える。下るエスカレーターの上で、あなたもだんだん、このぎこちない粒子の荒れた世界の住人へと近づいていくのだと思う。

「コーヒーの味だって、きっと違うな」

 エントランスに背を向ける位置にあるテラスチェアにあなたは座る。少し猫背だ。

「さて……」

 そう。あなたの思考は、この「さて」から一歩も進むことが出来ない。ここを出る?

 まだ午後の早い時間で、あなたは家に戻っても、すべきことも、したいことも無かったのではなかったか? 家に留まるよりは、外に出たほうが、何かに出くわせるかもしれないと、そんな安易な気持ちで外出してしまったあなたが、ここでコーヒーが冷めていくのを猫背のまま凝視し続けているからといって、誰に責められることも無いだろう。あなたは、やはり、さっきの彼女の事を考えてしまう。

「地獄のように黒い。いや、熱いだったかな。後悔のように苦い。いや黒いだったかな。ま、どうでもいいや」

 と呟き、真剣に思い出そうとしているのは、じつは彼女の髪を一つに結わえていたゴムの色だったりする。当然、思い出せない。あなたは、そこで気がつくのだ。自分が見ていたのが現実の彼女ではなく、現実の彼女からあなたが想像した幻想の彼女であったということを。幻想の彼女をリアルにするために、あと何を付け加えればいいだろう? とあなたはそんな考えに夢中になる。

「つむじ? 虫歯? 歯列矯正? ネックレス? ピアスはしてなかった。ほくろ? 後頭部? 服の中身? 下半身? 靴? 腕の産毛? 声? 鼻? そうとりあえず鼻」

 全く奇妙だと思う。あなたは彼女の鼻の恰好をまるで見ていなかったのだ。何故、見なかったのか分からない。そして鼻のあたりをぼかしたままの彼女の面影は、確かに彼女なのだが、そこに思いつく限りの鼻をモンタージュしていくと、彼女とは似てもにつかぬ顔になってしまう。あなたは、苛々とする。だが、もう一度エスカレーターを昇っていくのは嫌なのだ。今ある面影ですら、再度の対面で壊れてしまうかもしれない。今更のように、カップを受け取った右手の指先がじんじんと熱くなってくる。きっと彼女の指先も熱くなっていることだろうと思った時、彼女のすらりとした指先までもが鮮明に思い描かれた。あなたは満足して、エントランスホールの吹き抜けを見上げるように、背筋を伸ばす。と、頭上には、銀色に輝くジェットエンジンが一基、頼り無げに浮かんでいるのだ。

 十五階と二十七階の間に、落ちつかない角度で宙づりにされていて、恐ろしい重量が一点で吊るされてている時によく見られる通りに、左右に揺れながら、ゆっくりと回転している。

「なんで、あんなもんが、こんなところに、あんなふうに、あるんだろう」

 素朴な疑問だった。あなたは他の人の様子を観察してみた。が、あれに気づいている人は誰もいないようだった。見上げるあなたの顔色が、エンジンの曲面で歪められたエントランスホールの鏡像に写りこんでいた。あなたは椅子を蹴り、エスカレーターへむかう。足をかけた途端に下りはじめたエスカレーターを必死で駆け登り、スタンドの前に立つ。彼女はスタンドの中でうずくまっている。あたりには芳醇なコーヒーの香りだ。

「大丈夫。君はよくがんばっているよ」