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阪神タイガース歴代背番号1 物語

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阪神タイガース 歴代背番号1物語 初代
伊賀上良平 いがうえ りょうへい(伊賀上潤伍)
生年月日  1917年4月29日生まれ
出身地   愛媛県伊予郡松前町
出身校   松山商業
ポジション 内野手 三塁・一塁 右投右打

旧制中学野球の花形選手。松山商業の先輩になる初代監督森茂雄を慕い
入団。背番号は「イノ1番」から、レギュラーの景浦将が外野に転校時
にサードを獲得。攻走守三拍子そろった名選手。
チャンスに強い1番打者として活躍。東西対抗戦にも4度出場。
実直な性格を買われ、異例の入団2年目から寮長に抜擢され。コーチと
してもチームに貢献した。

通算成績 実働11年 出場733試合 打数2735 安打691 本塁打33 
打点330 盗塁54 犠打27 犠飛2 三振224 打率.25

 アマチュア時代/戦績  現役時代/成績
1935年 松山商業の時、春夏甲子園に3番サードで出場 
1935年 夏 優勝  
1935年 12月12日 大阪タイガースと入団契約。
1936年 背番号1 39試合出場 1本塁打 12打点 打率.183   
1936年 10月23 日大東京戦、球団史上初 満塁本塁打
1937年春 52試合出場      29打点 打率.229
1937年秋 47試合出場      26打点 打率.225  東西対抗戦出場
1938年春 34試合出場      16打点 打率.256
1938年秋 37試合出場 1本塁打 24打点 打率.261  東西対抗戦出場
1939年  95試合出場 1本塁打 39打点 打率.240  東西対抗戦出場
1940年  94試合出場 3 本塁打 37打点 打率.257 
打撃ベストテン 10位  東西対抗戦出場  
徴兵

1943年     復員後は腰痛・神経痛で阪神退団
       戦後事情で松山生活、松山実業団で野球を再開。
1949年~54年  プロ野球復帰 大映スターズ入団 335試合出場
1952年 潤伍に改名 
1954年     現役引退
1955年~57年 大映スターズ、大映ユニオンズでコーチ
1958年~59年 四国電電 監督
1960年     阪神タイガース 打撃コーチ 背番号1
1961年     阪神タイガース 打撃コーチ
松山帰郷 松山建装社参与
2000年 2月27日 逝去 享年82歳


阪神タイガース 歴代背番号1物語 2代目
乾 国男 いぬい くにお                                  
生年月日  1923年3月18日生れ  92歳(2015年5月)
出身地  兵庫県芦屋市生まれ 大阪府狭山市育ち
出身校  京坂商業 現在は守口高校→芦間高校
内野手  三塁手 後に二塁手  右投げ右打ち

実働3年 出場138試合 打数257 安打44 本塁打2 打点9
盗塁6 犠打9 三振73 打率171

小柄で俊敏な内野手。
二塁手 90試合出場 三塁手 34試合出場 遊撃手 11試合出場

1942年 背番号2  34試合出場 53打数   8安打 打率.151
1943年 背番号2  62試合出場 137打数 24安打 1本塁打 打率175  
開幕、後楽園、巨人戦で決勝本塁打を打つ
1946年       3月阪急定期戦 から復帰                              
1946年 背番号1   40試合出場  67打数 12安打 打率179
1947年       国民リーグに移籍退団。大塚アスレチックス 内野手
1950年       都市対抗出場  古沢建設株式会社
1952年       産別出場    明利酒類株式会社


阪神タイガース 歴代背番号1物語 3代目
大館 勲 おおだて いさお   
生年月日  1917年4月9日
出身地   米国・ハワイ 日系2世
出身校   マッキンレー高校 平安中学 京都武道専門学校
内野手   一塁手 右投 右打
ノンプロ  全京都

柔道家として、兵庫県警で師範を勤めながら全京都でプレー。
怪力を買われて31歳で入団。
平安中学のOBで野球をやった時に特大本塁打を打ち。
プロ野球への道が開ける。若林監督との縁で入団。

1948年 全京都の3番1塁手として都市対抗に出場
1949年入団。 42試合出場 80打数 17安打 4打点  打率213    
大館-徳網交換トレードで毎日に移籍

エピソードWikipedia引用
1952年7月16日の平和台事件。日没ノーゲームに怒った西鉄ライオンズファンが、遅延行為を行った毎日選手の宿舎を囲んだ際に、大館が宿舎を出て謝罪した。これには激昂していた西鉄ファンも感服し、「あんたよか男ばい」と大館に握手を求めたという。

引退後、日米野球界の懸け橋となり、ロス五輪前には、ソ連(当時)の参加の意向を探るためロサンゼルス・ドジャースのピーター・オマリー会長の頼みを聞いた松前重義・元東海大総長の特使としてモスクワ入り。当地の体育委員会議長と直談判に及んだこともある


阪神タイガース 歴代背番1物語 4代目
梶岡 忠義 かじおか ただよし
生年月日   1920年9月26日生れ
出身地    大阪市
出身校    成器商業 専修大学
ノンプロ   中央工業
ポジション  右投右打

専修大学では投打の軸、エースで4番で活躍。3年連続東都大学リーグ優勝
に貢献した。卒業時に阪神の田中義一から入団の勧誘を受けたが
10月学徒動員で満州に出征。
球質の重い力のある速球一本で勝負していたが、肘の故障後は外角に鋭い
カーブを交え幅のある投球で戦後のタイガースを代表するエースに成長。
打者としても 12本塁打を記録する強打者でもあった。

「猛虎魂」がピッタリの選手。骨折でも平気な顔をしていた。また、同年代に活躍した藤村隆男に対しては凄まじいライバル心を抱き、藤村が登板すると
「負けてしまえ」と思っていたと供述。
しかし、最優秀防御率のタイトルを獲得した時の賞金で自分には腕時計、夫人には指輪をプレゼントしたという意外な愛妻家の一面ものぞかせていた。

実働9年 登板299試合 131勝 85敗 140完投 21完封 13無四球試合  1920イニング 652奪三振 防御率2.80

1946年 復員後、創設された中央工業野球部入部。
1947年 2月1日 南海から勧誘を受けるが、阪神田中義一への義理から 
     阪神に自ら連絡をして入団する。
     背番号18のエース番号を若林から譲渡され大活躍、優勝に貢献。、
37試合出場 22勝8敗 280,1イニング 防御率1,92.
     東西対抗戦の出場。

1948年 50試合出場 26勝17敗 367.2イニング 防御率2.54        8月24日ノーヒットノーラン達成 35完投はリーグ最多      東西対抗戦出場
1949年  30試合 13勝10敗 190.2回 3.96
     (オフ、別府温泉で肩治療の為、その年の引き抜き騒動を免れた)

1950年  背番号1に変更