はじまりの旅
**********
クグレックは2階に上がった。階段は更に3階へと続いているが、3階はおそらくニタとボスが潜んでいるはずなので、まずは2階からの探索だ。杖を取り戻さなければならない。2階は深紅の絨毯が敷かれた廊下が続いていた。突きあたりには油絵で描かれた花の絵が飾られていた。右手側には4つの扉が並んでいた。
クグレックは手当たり次第にすべての部屋を探そうと試みた。まずは一番近い部屋の扉を開けようとした。が、鍵がかかっていたので、クグレックは慣れた手つきで鍵開けの魔法を使った。鍵開けには時間がかかるので、隣の扉へ移った。隣の扉も鍵がかかっていたので、鍵開けの魔法を使って3番目の扉へ。ここは鍵がかかっていなかった。クグレックは扉に耳を当て、中にだれもいないかどうか確認した。呼吸音もうるさいので、息を止めて部屋の中の音に聞き耳を立てる。話し声や足音、物音は何も聞こえない。
誰もいないということを確認して、クグレックは扉をゆっくりと開く。指1本分だけ開けると、部屋の中は灯りがついていたことが確認できた。誰かいるのかもしれない、と思ったが、クグレックはそのまま扉を開け、部屋の中に侵入した。
灯りは付きっぱなしだったが、部屋には誰もいなかった。クグレックは念のため内鍵を閉めておいた。
この部屋は誰かの部屋のようであった。書類が大量に入った棚と、チェストがあり、奥の方には2段ベッドが2セットあった。
クグレックは杖がありそうな棚周辺を探してみたが、クグレックの求める杖は見つからなかった。
その時、ガチャガチャと扉のドアノブを回す音がした。誰かが入ってくるかもしれない。
クグレックはとっさに二段ベッドの布団の中に身を隠した。
ガチャリ、と鍵が開く音がすると、ぎいと扉を開けて誰かが入って来た。
足音は限りなくクグレックが隠れているベッドまで近付いて来る。この緊張感がクグレックの寿命を縮ませてはいないだろうかと不安になるほど、今日は心臓をバクバクさせている。
入って来た誰かは、ベッドの傍で何かをかちゃかちゃと弄っている。そして、独り言を言い始めた。その声はクグレックが思うにマシアスであったが、様子が少しおかしい。
「俺だ。ハッシュだ。今転覆屋のアジトにいる。が、ちょっと邪魔が入って、今日中に潰すことになると思う。なるべく早くフォローをくれ。穏便に済ませたかったんだが。――ははは、まぁ、これで誤解が解けるのであれば、どうなったっていいさ。ランダムサンプリの方は既に懐柔できている。なにかあればこっちが支援することは伝えている。――あぁ、ちょっと時限爆弾みたいなもんだ。なるべく早く、頼む。じゃぁな。」
誰かと一緒に居るのだろうか、とクグレックは思ったが、聞こえてくるのはマシアスの声だけだ。まるで会話でもしているかのような独り言だ。彼は一体何を潰すつもりでいるのだろうか。ニタのことだろうか。息を殺してベッドの中に潜むクグレックはとにかくマシアスが早くどこかに行ってくれないかということだけを考えていた。
ところが、マシアスはため息を吐くと、気が抜けたように2段ベッドに腰を下ろしたのだった。残念ながら、そこはクグレックが隠れていたベッドで、クグレックがマシアスの尻の下敷きになることだけは免れた。しかし、その降ろした手は、不自然に盛り上がった布団に降ろされ、マシアスが違和感に気付くのに数秒もいらなかった。
マシアスは、勢いよく布団を剥がした。そこには小さく丸まって小刻みに震える黒いローブを着た娘の姿があった。
マシアスは心底驚いた様子で「大人しくしていろっていったじゃないか!どうやって出て来た!」と怒鳴りつけた。
クグレックは心臓の動機がピークに達し、心臓麻痺で昇天してしまいそうな心地でいたが、ニタのことを思い出し、勢いよく体を起こして木片をマシアスに向けた。
「ニタと私の杖はどこ?」
黒髪をぼさぼさにして、クグレックは涙目になりながらマシアスを睨み付ける。
マシアスはため息を吐くも感心した様子で
「さすがは魔女。あんな暗くて狭い部屋に閉じ込められても活路を見いだせるんだな。ちょっと見くびっていた。注意すべきはあのペポだけではなかったか。」
と言った。呑気に感心するマシアスに反して、
「そんなことよりも、ニタと私の杖!」
と、強い語気のクグレック。彼女はパニック状態に陥っていた。怖気づく余裕もない。
「ペポは3階のボスの部屋。お前の杖は2階の武器倉庫。」
マシアスが思いのほか素直にクグレックの問いに答えたことに、クグレックは拍子抜けした。あれ?と違和感を感じながら、マシアスを見つめる。暗い小部屋で許せずにいたマシアスは超極悪人として浮かび上がっていたはずなのに、目の前のマシアスはどこか優しい表情でいる。
「ペポはそろそろ目を覚ますだろう。今は鉄の檻にいるけどあいつのことだから、おそらく檻を破壊して脱獄するだろうな。」
クグレックはマシアスの様子が思っていたものとは違っていたことに戸惑い、目を何度も瞬かせる。
「ここの奴ら位なら、ニタ一人でも倒せるだろうけど、だけど、魔女といえどもお前は関わらなくても良い。ペポのことは俺に任せて、もう少し寝ると良い。」
マシアスは優しくクグレックを抱きしめる。初めて祖母以外の人に抱き締められたのだが、クグレックは鳥肌が立って背筋に悪寒が走った。クグレックはマシアスの胸を押してマシアスから離れようとするが、相手はニタを抑えることが出来る手練れだ。非力なクグレックではマシアスから離れることが出来なかった。
「やだ、離して!」
「兄貴からは女の子に手荒な真似はしちゃいけないって言われてるんだけど、やむを得ないんだ。」
マシアスはクグレックの髪を流して、うなじをさらけ出した。そして、クグレックのうなじ付近に手をやり、何かを確認するようにさする。
「いや、やめて!私、ニタを助けなきゃ!」
クグレックは、自分もニタのように一時的に意識を飛ばされることを察知し、抵抗した。だが、クグレックが何をしたとて、マシアスには何も効かない。
「いや!」
クグレックは目を瞑り渾身の力を振り絞って叫んだ。
すると、バチッという音と共に雷が落ちたかのように周囲が一瞬だけ白く光った。
再びクグレックが目を開けると、マシアスは床の上で尻餅を着いて驚いている。
「お前、今、なにをした?」
クグレックも突然の状況に驚いて、声を出せずにいた。息が乱れ、額から汗がたらりと垂れてくる。
クグレックは前にも同じような状況があったのを思い出した。
メイトーの森を抜ける前に出会った謎の紅髪の女がクグレックの首を絞め、殺そうとした時に、バチッと閃光と音がしたかと思うと紅髪の女はクグレックから離れて腰を抜かしていたことがあった。クグレックの強い拒絶の力が、魔力と相俟って暴発してしまったのか。それは良く分からない。
「…眠らされるのは、俺の、ほうだったか…。」
マシアスはそう呟くと、そのまま倒れて横になり意識を失った。
クグレックは思わずマシアスに駆け寄り、状態を確認した。
きちんと心臓は動いており、呼吸もしているし、体温もある。