はじまりの旅
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翌日、予定変更を行い、再びメイトーの祠へ戻ることに決めた二人は、もと来た道を戻っていく。
「メイトー様に何かあったら心配だ。」
森の中を進んで行く二人だったが、そこへ一人の女性が現れた。
くたくたになった白いローブを着た、唸るような紅い髪をした大柄の女性。蛇の飾りがついた杖を持ち、二人にそれを向ける。
「み、見つけたわよ、黒魔女!」
ニタは、すかさずクグレックの前に立つ。
「なんだよ、だれだ、お前!」
「なに、この喋るぬいぐるみ。」
「ぬいぐるみじゃなーい!」
ぬいぐるみ扱いされたニタは地団太を踏んで憤慨した。
「ぬいぐるみ、邪魔よ。」
紅髪の大女が蛇の飾りがついた杖を一振りすると、ニタはふわりと浮かんで、傍の木に飛ばされていった。激しく木にぶつかり、打ち所があまり良くなかったらしく、ニタは目を回してがくりとうつ伏せに倒れた。
「ニタ!」
クグレックはニタの元へ駆け寄ろうとしたが、目の前の紅髪の大女に行く手を阻まれた。
「黒魔女、会いたかったわよ。」
紅髪の大女は、クグレックの顎を取り、顔を近づける。
「アンタがとうとうエレンを殺したというから、来てやったというのに、どういうわけか森から出られなくなって焦ったけど、ようやく見つかって良かったわ。」
妖艶な笑みを浮かべて、赤髪の大女は舌なめずりをした。クグレックは、彼女の緑色の瞳が気になり、じっと見つめていた。緑色の瞳をした人を今まで見たことがなかったからだ。このメイトーの森の木々と同じ深緑の瞳の美しさにほれぼれしそうになったが、クグレックは経った今彼女が言った『アンタがエレンを殺した』という言葉が気になった。エレンとはクグレックの祖母の名前だが、クグレックは決して祖母に手をかけてはいない。クグレックの目の前で祖母はベッドで静かに息を引き取ったのだ。
「とりあえず、アンタの力が私には必要なの。だから、アタシのために、死んで頂戴。」
紅髪の大女はクグレックの首に手をかけた。ぐっと力を籠め、クグレックを締め上げる。クグレックは突然のことに驚いて抵抗すらも出来なかった。いや、しなかったというべきか。
「糞女、ククを離せ…。」
弱弱しいニタの声が耳に入る。その時、クグレックははっとして我に返り、ニタを助けるために大女の手を剥がそうと試みた。だが、非力なクグレックの力ではどうすることも出来なかった。
酸素が欠乏し、視界と音が薄く白み始めたかと思うと、バチッという音と共に雷が落ちたかのように周囲が白く光った。大女は小さな悲鳴をあげてその手を離した。
解放されたクグレックは噎せて、苦しそうに咳き込んだ。喉が痛かった。
落ち着いてからクグレックは目を開けた。涙で潤む視界の中には、尻餅をついて倒れ込んでいる大女の姿があった。大女は呆然とした様子で、クグレックを見ている。
クグレックはニタを心配して探すが、ニタは相変わらずうつ伏せで倒れていた。
クグレックはニタに駆け寄り、「大丈夫?」と声をかける。ニタは力なく片手を上げて「うーん、大丈夫…。」と言って、だらりと手を降ろした。どうやらニタが生きていることを確認できてクグレックは安心した。
だが、状況は何も変わらない。突然クグレックの命を狙う謎の紅髪の大女が残っているのだ。彼女から離れなければクグレックだけでなくニタも危ない。
「…一体…、何なの?」
首を絞められた影響で、喉が潰れてしまったガラガラのだみ声でクグレックが尋ねた。
「いや、こっちこそ、なんなのよ。急に体に強いびりびりが走ったのよ。今、アタシは全身痺れて立ち上がれないわ。」
その時、クグレックの懐から小さな陶器製の瓶がころりと出て来た。この小瓶には祖母が亡くなった後に残した灰が入っていた。クグレックは愛しそうにその小瓶を拾って再び懐に戻した。
その様子を見ていた紅髪の女は機嫌悪そうに目を細めた。
「アンタは本当にエレンに愛されていたのね」
エレンとはクグレックの祖母の名前だ。なぜこの見ず知らずの女性が祖母のことを知っているのか、そして、その死についても知っているのか。クグレックは声を絞り出す。
「どうして、おばあちゃんのこと…知ってるの?」
「あの人は魔女の中でも高名な薬師だからねぇ。その界隈じゃ有名なのよ?魔女としても有能だし、勘が良い人はエレン程の魔力が消滅したことくらい、気付けちゃうわ。」
淡々と語る女性だったが、ふと口元に笑みを浮かべた。まるでクグレックを嘲笑するかのように。
「でも、そんな有能な魔女でも、更に上を行く魔女の力は抑えきれなかったみたいね。」
クグレックは、大女の笑みに不安な気持ちを覚えた。
「黒魔女、アンタは世界を混沌に陥れるくらいの力を持っている。でも、その力をコントロール出来なければ、アンタはただの悪魔であり、疫病神であり、呪われた存在でしかない。コントロール出来ないアンタの力は、瘴気の源となって魔を呼ぶだけ。風を止め、大地を腐らせ、人の心の闇を刺激する。人々に疑心暗鬼、憎悪の心を生み出し争いを発生させる。アンタはそんな存在。本来なら魔女は長生きするはずが、エレンが普通の人間と同じ年齢で死んでしまったのは、アンタの力を抑えていたせい。全部アンタが原因なのよ。」
クグレックは表情を暗くした。自身が忌み嫌われる存在だということが分かっただけでなく、その影響が大好きな祖母にまで及んでいたことも指摘されて、陰鬱とした。
「そんなこと、ないよ。」
うつぶせになったニタが、弱弱しい声で反論した。顔だけ上げて紅い髪の大女を鋭い視線で睨み付ける。
「エレンはしょうがなかったんだ。色んな業があってエレンは天命を全うした。ニタはそのエレンの意志を引き継いだ。だから、ククは悪魔でもないし、厄病神でも呪われた存在でもない。ニタの友達を悪く言わないで…。」
「な、なによぬいぐるみ風情が!」
「ニタがこんなんじゃなかったら、お前のこと、ぶん殴ってやってるところだった。」
威嚇でもするかのように怒った表情をするニタだったが、動くことが出来なければどうにもならなかった。
だが、幸いにも目の前の紅髪の大女も尻餅を着いたまま立ち上がる様子もないので、紅髪の大女とニタの罵詈雑言の応酬が繰り広げられるばかりだった。
と、その時、なにか白いものがクグレックとニタの頭上を飛び越えて行った。そして、紅髪の大女の前に降り立つ。
「メイトー様!」
ニタが叫ぶ。
すらりとした美しい毛並みの白い猫が前足をぴったりと前に揃えて、ぴしりと姿勢を正して紅い髪の大女の前にすまして居座る。神々しいまでに白く輝く毛並みを持つこの猫は、この森を治めるメイトーである。マルトの村人はメイトーを神格化しているが、メイトーはなんの変哲もない白猫だ。ただ、人間よりもずっと長生きをするし、不思議な力も使える少々特殊な白猫であった。
紅い髪の大女はそんなことを知ってか知らずか、メイトーを前に余裕の表情を見せていた。
「へぇ、アンタがこの森の守護神メイトーね。随分綺麗な猫ちゃんじゃないの。」
「メイトー様を馬鹿にするな!」
ニタは這いつくばりながら、怒鳴りつける。