D.o.A. ep.58~
エメラルダの転移術によって、気付けば見知らぬ土地にいた。
―――正確には、このスタインという名の大きな町の裏通りで、気を失っていたらしい。
貧しい身なりの少年に肩を叩かれ、目を覚ました彼女の第一声は、ライ!であったが、少年はどこにもいなかった。
彼女は知るよしもないが、ライルはその頃、遠く離れた無人島にいたのである。
お姉ちゃんよそから来たの?―――と尋ねる幼いどんぐりまなこには、警戒と、僅かな親しみが宿っていた。
うなずくと、嬉しそうに顔を綻ばせた少年からは警戒心が消え、汚れた小さな手で彼女を引っ張り起こしてくれた。
―――ぼくもお父さんとね、よそからこの町に来たんだよ。一人ぼっちなら…ぼくらのところへ、おいでよ!
右も左もわからない彼女に、断る理由はなかった。
少年に手を引かれて、妖しげな裏通りを進む。
慣れたように歩いていく少年の後ろ姿を見ながら、不意にレーヤを思い出した。
何も知らない、自分の不幸さえ知らない、可哀想な少年。
白甲冑の男に、腹癒せに殺されてしまっただろうか―――それとも彼らも逃げ延びているのか。後者であることを祈った。
ふと立ち止まった少年は、ここ、とにっこり笑って、建物の隙間にあるような、地下へと続く階段を下り始める。
降りきると意外なほど広い空間が開けていた。
もっとも、おびただしい人々が犇いていたためやや息苦しく、お世辞にも清潔で明るいとは言いがたい。
皆一様に貧しい身なりではあったが、酒を飲んでいるからか暗い顔は見当たらず、思い思いに何かを喋っている。
どういう集まりなのだろう。ここは、この子の家なのだろうか。
ざわざわとしていて、個々が何を語り合っているのやらよく聞き取れないが、熱の入った表情から大事な話題であろうと察した。
少年はなおリノンの手を放さず、人垣を縫って前へ前へと歩いていき、お父さん!とさけんだ。
品はあるがぼろぼろのアンティークチェア(捨てられていたものを拾ってきたのだろう)に腰かけた男。
駆けよる幼子を慌てて抱きとめ、でこピンを小さな額に食らわせながら、勝手に出て行ったら危ないだろう、などと叱っている。
そこで少年はリノンを振り返り、このお姉ちゃんと一緒だったから大丈夫だよ、このお姉ちゃんもよその人なんだよと紹介していた。
男は無精髭を生やした強面でリノンを少し凝視していたが、ややあって一気に同情的な態度を示しだした。
同情されるいわれが無いので、なんだか不気味になり、私帰ります、そう言って踵を返そうとすると、今度は男に腕をつかまれる。
遠慮するな、あなたは俺達と同じだろう?と、手の力を強めてくる。
そして、この国は知っての通り不平等だ、そんな演説をはじめ、みな耳を傾けた。
いわく、我々はこの国の女王によって受け入れられた、正当な移民である。
であるというのに職場も待遇も明らかに差別され、住む事を許されたのはこんな薄暗く陽もロクに当たらない裏通りのみ。
不当な差別や暴力にさらされても、この町の権力者の意向で抗議は無視される。
砂漠で分断されているために、遠い王都へは直接文句を言いに行くこともできない。
このままでは、我々は永遠にこの国の人間の奴隷となって生きなければならない。
しかし、と、男は力強く握り拳をつくって掲げる。
―――我々は決して、犯罪や暴力を以て抗うことはしない。なぜなら。
もうじきあの方がこの町へおいでになる。
このアルルーナの次なる主君、王女シューレット様。
若くとも、聡明で慈悲深いあの方ならば、我々の叫びを聞き届けて下さるだろう。
あのナファディ=ラジアンも、あの方には絶対に従わざるを得ない。
要求はただひとつ。ただ切なる平等である。
長らく虐げられた我々が、報われる日はもうすぐそこまできているぞ!
―――万雷のような拍手。
高まる熱気の中で、リノンは一人、冷めていた。
貧した者が、他国に理想と希望を抱き、祖国を棄てて勇んで行って。
よくありがちな、憐れな人々の物語。
その結末が、幸せになれるのは、童話の中くらいだ。
けれども、永遠に奴隷ということは恐らくない。
時間をかけてこの国に馴染んでいけば、いつの日か軋轢はなくなるだろう。
1世代ではきかない、3世代、4世代も後のことにはなるだろうが。
現実的には、そういった問題を解決してくれるのは長い時間と真摯な生き方だけである。
急激な変革は、もし成功しても一時的なもので、恒久的なものにはならないだろうし、皺寄せが必ずある。
熱狂の中でこんなことを意見したら袋叩きに遭うな、と考えるリノンは無論口には出さない。
―――そしてまた一人ここに、新たな同胞が加わった!
ぎょっとして男を見上げる。そんなことは一言も言っていない。
挙動不審になる当人を差し置いて、男はどんどん話を進める。周囲は歓迎の声と眼差しを彼女へ投げかけ、あまりに純粋なそれに怯む。
虐げられた彼らは、概ね善良で純朴だった。
リノンは職業柄か、そういった人々の厚意を無下にあしらうことを最も不得手としていた。
押しに負けて、よろしくおねがいします…などとか細く答えてしまったら、もう引っ込みはつかなかった。
けれども同志にはそれはもう親切な人々で、プライバシーは皆無だったが、働き口もすぐには見つからないでしょうと食べ物と寝床をくれたりした。
王女様の訪れまで平穏な日々が続かくと思われたが、そう長くはもたず、あっさりと破綻することになった。
突入してきたクリーム色の装備の兵たちによって、老若男女手加減なしに捕縛されていく。
彼らはみずからをアルルーナ王国軍警邏隊と名乗り、この場に集った移民を捕らえるようナファディ卿の命を受けていると宣言した。
罪状は、不届きにも王女殿下暗殺を企てた、というものらしい。
そんなことしてない、ちゃんと話を聞いてくれ、などと涙ながらに訴えても無駄である。
大半がお縄となり、いくらかはうまく逃れたようだが、リノンは不届き者の一員として連行された。
連行のさなか、囚われの人々は怒り嘆いた。
これは明らかに不当逮捕であり、冤罪である。移民はひとところに集まって話し合うことさえ許されないのか、と。
―――そんな憤りは、牢獄生活3日で鎮静化した。
狭い地下に満たされる薄い霧が、彼らの正気を蝕んだのであろうか。
比較的しぶとい者も5日もすれば無口になり、やがて食事と排泄を繰り返すだけの生き物となり果てた。
そんな中、リノンは幼馴染みの少年を想い続ける。
悪夢と悪夢のような現実の中で、それだけが精神を保つすべだった。
作品名:D.o.A. ep.58~ 作家名:har