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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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  木槿の村

 息が詰まるような沈黙、緊張がその場を包み込んでいる。ソナは相手の手許を彼女もまた緊張した面持ちで眺めた。
 ソナが毎夜、精魂込めて仕上げた作品は今、丹念に検分され、その努力の成果が試されようとしている。いつもは人の好い、いかにも好青年といった若旦那の表情も流石にこのときだけは別人のように様変わりする。
 そんな時間が果てなく続くかと思われたその時、若旦那がホウと息を吐いた。改めて顔を上げ、ソナを見やる。
「いつもながら、見事なものだね」
 ソナも気を緩めたあまり、小さな息を吐き出した。
「褒めて頂いて、光栄です」
 次いで微笑む。その花が綻んだかのような微笑みに、まだ若い絹店の息子は眩しげに眼を細めた。
「これは木槿(むくげ)かい?」
 若旦那の問いに、ソナは笑みを浮かべたまま頷く。
「今、丁度、家の廻りに木槿が咲いていて、とても綺麗なんです」
 若旦那も頷く。
「まあ、君の住んでいる村自体が木槿で有名なところだからね。まるで、今にも風にそよぎそうな本物の花に見える。いつも素晴らしいが、今日のは更に申し分ない」
「ありがとうございます」
 ソナは笑顔で礼を言った。
「ちょっと待って」
 若旦那は断り、一旦、店の奥へと引っ込む。
 申仙娥(シン・ソナ)が暮らしているこの地方は都漢陽(ハニャン)から徒歩(かち)で二日ほど離れた中規模どころの地方都市である。中心の町には地方役場もあり、都にははるかに及ばないものの、それなりの賑わいを見せていた。
 ソナはその町から更に少し離れた鄙びた村に暮らしている。初夏から初秋にかけてのこれからの季節、木槿が殊の外見事なことから、別名?木槿の村?と呼ばれていた。咲く木槿はピンク、白、紅と様々だが、特に多いのはピンクだ。わざわざ都から風流な両班(ヤンバン)や金持ちが見物に訪れることでも知られていた。
 二十歳のソナは以前、とても辛い恋をした。あろうことか、初恋の相手はこの国の王だったのである。宮殿の奥深く後宮、何人たりとも容易に足を踏み入れられない場所でソナの恋は花開き、散った。
 どう見ても可憐で儚げな風情の美貌だが、これで夜毎、王さまを寝所で誑かす傾国の妖婦だと悪し様に言われた過去を持つのだ。だが、それらの悪しき噂は大方は事実無根である。確かに以前のソナは王妃になりたいという野心を持っていたけれど、それは裏返せば愛した男ハンの側にいたいと願う純粋な女心から発するものだった。ソナ自身でさえ、最初は王妃への野心が単なる出世欲なのか、それともハンへの愛によるものか判別がつかなかったのだ。
 だが、愛する男は二十五歳の若さで亡くなり、ソナは独りになった。ハンを失ったまま、彼と蜜月を過ごした都にいるのはあまりに辛く、ソナは逃げるように漢陽を離れた。それが今から三年前のことになる。
 今、ソナを取り巻く時間の流れはとても緩やかであった。昼は村に一軒しかない小さな酒場で働き、夜は刺繍の手内職に精を出す。昔から刺繍が得意であった彼女は自分で刺した刺繍を町の絹店に持参して売り、幾ばくかの報酬を得ていた。
 小さなものでは若い娘が好んで身に付けるようなリボン、手巾、大きなものでは額に入れた絵画のような大作刺繍だ。額入りの刺繍は値段もかなり付いたが、町で名の知れた豪商や地方両班の夫人たちは気前よく買い上げてくれるお陰で、ソナもかなりのお金を得ることができる。
 今日はその絹店に刺繍を持参する日だった。いつも対応してくれるのは店の後継者たる若旦那だ。徳?(トクチヨル)といい、歳は丁度、ソナと同じくらい、いつもは至って穏やかで優しい好青年だが、こと仕事のことになると、人が変わったようにまなざしが厳しくなる。流石に町でも随一といわれるやり手の商人、チョ商団の頭首(ヘンス)趙萬基(チヨ・マンギ)の息子だけある。
 トクチョルはすぐに戻ってきた。脇には小さな木箱を抱えている。ソナの前でその木箱を開くと、中には束になっている銭が見えた。
 彼は無造作に金束を掴み、小首を傾げる。陽に透かすように眼の前に掲げて子細に眺めているのが妙で、ソナは訝しげに見守った。
 まだ朝の早い時間とて、店内はさほどに客は多くない。もっとも、この店の構えはけして大きい方ではなかった。どちらかといえば、こぢんまりとしており、外見だけでは町一番の豪商という風には見えない。
 ただ取り扱っている布は様々で、清国渡りの上等な眼にも彩な布が無造作に周囲の棚に積み重ねられている。女なら一度はその身に纏ってみたいような美しい布ばかりだ。
 と、店の奥から小柄な男が現れた。チョ商団の副党首である。中年のどこまでも平凡な男だが、この男も見かけによらずで、頭首のマンギの片腕と目される商団にとっては重要な人物だという。
「若さま(トルニム)、接客中に失礼します」
 副党首はトクチョルの側に寄ると、低声で何やら耳打ちした。トクチョルの顔が曇った。何か良くない話であったのは確かなようである。
 あまり不躾に見ても失礼なので、ソナは視線をあらぬ方に向けていた。副頭首が去ってから、トクチョルが苦笑めいた笑いを浮かべた。
「どうも失礼」
 彼はもう一度手にした銭を見つめ、深い息を吐いた。
「ここのところ、町に偽金が出回っているようでね。今もまた見つかったと副頭首が報告に来たんだ」
「―」
 ソナは眼を見開いた。
「偽金、ですか?」
 トクチョルは頷いた。
「一年前くらいかな、うち以外の店で偽金が見つかったという話を聞いていたのだが、ここ三ヶ月ほどは、うちでも見つかってね。一体、どういう経路で偽金が出回っているのかが知れない。厄介なことになったものだよ」
 ソナはそれで得心がいった。だからこそ、トクチョルが先刻、金箱の銭を用心深く試すように見つめていたのだ。あれは偽金ではないかと見ていたのだろう。
「その偽金は外から入ってきたのでしょうか?」
 問えば、トクチョルは思案するように首を傾げた。
「どうだろう。実はここだけの話なんだが、物騒な噂が流れているんだよ」
 トクチョルは声を低めた。
「木槿村の外れに銀細工職人の工房があるだろう?」
「ええ」
 確かに、ソナの暮らす村の外れには小さな工房があった。滋劫(ジャコビ)という四十年配の男が経営する工房だ。職人が数人いると聞いているが、ジャコビはあまり村人と拘わらない無愛想な男のため、詳しくは誰も知らない。
 トクチョルは更に声を落として続けた。
「先刻、副党首が告げにきたのは、そのことなんだ。うちの絹店の上得意の一つに崔(チェ)氏の奥さまがいる」
 ソナは眼をまたたかせた。
「崔氏といえば、地方両班の名家では?」
 トクチョルが頷いた。
「そのとおり。今では地方暮らしで逼塞しているが、何代か前は都で判書(パンソ)も務めたという由緒はある家門だ。だが、そんな廃れた両班の夫人がどうしてそんなに金払いが良いのかと思うほど、気前よく効果な布を次々と買い上げてくれる。それはまあ、うちの店にとってはありがたい話なんだけど、奥方はそこまで金払いがよくなったのは最近の話なんだ」
 ソナの思慮深げな瞳の色が濃くなった。
「それはいつ頃から?」
「一年前ほどのことかな」