Lost Universe 01
「兄貴。俺、夢が叶った……プロサッカー選手になれたんだ」
ある日の夕暮れ、人気がなくしんとした公園の一角で、透き通った少年の声が響いた。
「しかも兄貴と同じチームだなんて、何かの運命じゃないかって思うんだ」
年齢は十八歳、活発そうに見えるがどことなくあどけなさも残り、肩につくかつかないかといった短めの茶髪が目に鮮やかな少年は、高校指定の制服姿でサッカーボールを胸に抱き屈託の無い笑顔をこちらへと向ける。
“兄貴”からしてみれば、それは心から嬉しいからこその笑顔だと一目見るだけで即座に分かってしまう笑顔だ。
「兄貴はもうチームの中心選手だし、それに比べたら俺はまだヒヨッコだけどさ。すぐに追いつくから!」
少年は頬を高潮させ、溢れ出る興奮から言うこともままならない様子だがそれでも一言一言慎重に発する。
少年からしてみれば、今この瞬間は遠征続きで家に帰ってこない兄との久しぶりの再会だった。
次に兄に会うときまでには良い話をしよう……そう思って頑張ってきた少年にとって、今この瞬間は希望に満ちていた。
「俺と兄貴で最強のディフェンスラインを作ろうぜ、最強の鉄壁をさ」
少年は兄のことが大好きだった。
昔からサッカーが上手くて、優しくて、勉強も教えてくれて、更には美味しい料理を作れる最高の特技まで備わっている。
自分は兄を上回ることなんて何も無い。ただ、兄の弟としての僅かな素質が夢を叶えてくれただけ。
「俺の次の夢は、兄貴と同じピッチに立つこと……俺たち二人で代表戦に出ること」
兄の背中に追いつきたいとがむしゃらに追い続けて数年。少年からしてみれば、最初は小さく爪の先ほどにしか見えなかった兄の姿が、年を追うごとに連れて近づいている実感があった。
兄は若干二十一歳にしてチームに欠かせない選手の一人と名を挙げ、代表戦にまで名を連ねるようになった。
そんな兄のことを誇りに思い、目標とし、もう少しでこの手が兄の背中に届くような気がして……少年の手のひらは小刻みに震えていたが、やがてそれはぎゅっと握り締められて拳へと変化していた。
「青戸駿と青戸集、俺たち兄弟の名前をこの国の連中に知らしめてやる……だから兄貴、もう少しだけ待っててくれ。絶対に追いつくからさ!」
――少年にとって、兄の存在こそが全て……そんな兄に少しでも近づけた気がして、言葉にならない嬉しさを噛み締めている。
「……ああ、待ってる」
兄はそう呟くと手のひらが弟の頭上に置かれ、静かに撫でるようにゆさゆさと揺れる……その手のひらの温もりは一生忘れないと笑顔を零した。
***
「間もなく、当列車は東部地方へと入ります。上陸の際は乗車券とパスポートが必要になりますので、各自用意の上……」
とある年の初春、十五両編成のリニアモーターカーの三両目。空席が目立ち、着席している乗客も読書やうたた寝をしていたなかに穏やかな女性の声が響いたのは、発車から四時間が経った頃だった。
「……」
車両の中ほどに、一人で窓際席に座り隣の空席に荷物を置いている青年の姿がある。
発車したときからコンクリートの壁しか映らない窓辺に肘を立て、更にその上に顎を乗せてうつらうつらとしていたが、車内にアナウンスが響くと静かに瞳を開く――右手を口元に当てながら欠伸をしつつ、青年の視線は空いていたもう左手の手首に巻かれた腕時計へと向いた。
時刻は夕方の十七時。定刻通りだと青年の虚ろな瞳はデジタルの盤面に映る――青年は黒髪短髪、整った顔立ちは非常に落ち着いていて、起きたてだからかどこかぼうっとしている。
背は高く百八十センチは過ぎた背丈にすらっとした細身の身体。
動きやすい白いシャツと黒色のチノパン、脚には薄汚れたスニーカーをはいてこうして見る限りでは体育会系の装いだろう。
今、何か夢を見ていた気がする――青年はふとそんなことを考える。
あの頃の自分は毎日が楽しかったし、心身ともに充実していた。しかし、今の自分は……そう考えたところで、青年は小さく溜息を吐く。考えても無駄なことだと思考を働かせることを諦めたのだ。
「……」
停車駅が近づき減速し始めた車内にはモーター音が響き、ふと青年は視線を窓の外へと向ける。
すっかり薄暗くなった空が見え、見慣れたようでそうでもない街並みが見え、車内の光に反射して窓には青年の顔が映る……晴れて新天地に来たと言うのに随分とやる気のない顔だと、我ながら笑いたくなる。
ふと青年は何かを思い出したかのように窓から顔を背けると、隣の席に置いたスポーツバッグを掴んでぐいと引き寄せると、その中から手帳サイズほどの薄い冊子を取り出すと、無表情で表紙をめくってみる。
冊子の中では表紙だけは横向きに使われ、ページの半分を青年の顔写真が占めている。
どこかやる気のない、ぼんやりとした顔写真の横には「青戸 駿」と書かれた青年の名前と生年月日――年齢に換算すると今年で二十八歳になることが記されている。
顔写真の右下には複製や偽造が出来ないようにとホログラムの認印が押してあって、下には「東部外務省」と発行元が書いてある。
言うなればこの冊子はパスポート……この国に外務省は二つあり、そのうちの一つで発行されたものというのも彼は“東部”の人間だから。
そしてこれから降り立とうとしているのは“西部”――同じ国内でも近くて遠い、一生縁がないと思っていたところだ。
青年――青戸は虚ろな瞳でパスポートに貼られた自分の顔写真を見ていたが、やがてぱらりとページを捲ると未記入の渡航記録ページになる。
そしてそこには一枚の写真が挟まっていて――今から五年前に弟と撮った写真だと、青戸は数分前に見ていた夢を思い出す。
同じ青色のユニフォームを着ている二人の胸には国の代表であることを示すエンブレムが光る……弟がプロに入って二年、代表選手に青戸兄弟の名を連ねるまでにそう時間は掛からなかった。
どちらともなく肩を組んで写真に写る青戸とその弟、集は眩しい笑顔を輝かせていて、弟にとっては二つ目の夢が叶った瞬間でもあった。
あれから五年――兄もまた、ある目的のために動き出そうとしていた。
「間もなく西部中央ターミナルに到着します。お降りの際は忘れ物をなされませんように、ご注意くださいませ。間もなく――」
ぼうっとしていた青戸は、車内に響くアナウンスと機械的な停車音が耳に届いてはっと我に返る。
完全にリニアモーターカーが停車したことを確認すると、ゆっくりと立ち上がって隣に置いておいた黒い薄手のコートに手を掛けた。
「……さてと」
青戸はパスポートを畳むとコートのポケットへと突っ込み、そのままコートを引っ掛けるようにして肩に羽織る。
元々並以上の背丈と風貌を持っていたのでこうして立ち上がると独特の威圧感があるが、当の本人はそれには気づかない。
仮にそう言ったオーラを持っていたとしても過去形に過ぎないと、青戸は今の自分の立ち位置を自分なりに理解しているつもりだ。
スポーツバッグを肩に掛けて車両からホームへと踏みしめたとき、冷たい風が頬を打つ――東部地方、生まれ育った故郷とは違う風だと、青戸は心の隅で僅かな寂しさを覚える。
ある日の夕暮れ、人気がなくしんとした公園の一角で、透き通った少年の声が響いた。
「しかも兄貴と同じチームだなんて、何かの運命じゃないかって思うんだ」
年齢は十八歳、活発そうに見えるがどことなくあどけなさも残り、肩につくかつかないかといった短めの茶髪が目に鮮やかな少年は、高校指定の制服姿でサッカーボールを胸に抱き屈託の無い笑顔をこちらへと向ける。
“兄貴”からしてみれば、それは心から嬉しいからこその笑顔だと一目見るだけで即座に分かってしまう笑顔だ。
「兄貴はもうチームの中心選手だし、それに比べたら俺はまだヒヨッコだけどさ。すぐに追いつくから!」
少年は頬を高潮させ、溢れ出る興奮から言うこともままならない様子だがそれでも一言一言慎重に発する。
少年からしてみれば、今この瞬間は遠征続きで家に帰ってこない兄との久しぶりの再会だった。
次に兄に会うときまでには良い話をしよう……そう思って頑張ってきた少年にとって、今この瞬間は希望に満ちていた。
「俺と兄貴で最強のディフェンスラインを作ろうぜ、最強の鉄壁をさ」
少年は兄のことが大好きだった。
昔からサッカーが上手くて、優しくて、勉強も教えてくれて、更には美味しい料理を作れる最高の特技まで備わっている。
自分は兄を上回ることなんて何も無い。ただ、兄の弟としての僅かな素質が夢を叶えてくれただけ。
「俺の次の夢は、兄貴と同じピッチに立つこと……俺たち二人で代表戦に出ること」
兄の背中に追いつきたいとがむしゃらに追い続けて数年。少年からしてみれば、最初は小さく爪の先ほどにしか見えなかった兄の姿が、年を追うごとに連れて近づいている実感があった。
兄は若干二十一歳にしてチームに欠かせない選手の一人と名を挙げ、代表戦にまで名を連ねるようになった。
そんな兄のことを誇りに思い、目標とし、もう少しでこの手が兄の背中に届くような気がして……少年の手のひらは小刻みに震えていたが、やがてそれはぎゅっと握り締められて拳へと変化していた。
「青戸駿と青戸集、俺たち兄弟の名前をこの国の連中に知らしめてやる……だから兄貴、もう少しだけ待っててくれ。絶対に追いつくからさ!」
――少年にとって、兄の存在こそが全て……そんな兄に少しでも近づけた気がして、言葉にならない嬉しさを噛み締めている。
「……ああ、待ってる」
兄はそう呟くと手のひらが弟の頭上に置かれ、静かに撫でるようにゆさゆさと揺れる……その手のひらの温もりは一生忘れないと笑顔を零した。
***
「間もなく、当列車は東部地方へと入ります。上陸の際は乗車券とパスポートが必要になりますので、各自用意の上……」
とある年の初春、十五両編成のリニアモーターカーの三両目。空席が目立ち、着席している乗客も読書やうたた寝をしていたなかに穏やかな女性の声が響いたのは、発車から四時間が経った頃だった。
「……」
車両の中ほどに、一人で窓際席に座り隣の空席に荷物を置いている青年の姿がある。
発車したときからコンクリートの壁しか映らない窓辺に肘を立て、更にその上に顎を乗せてうつらうつらとしていたが、車内にアナウンスが響くと静かに瞳を開く――右手を口元に当てながら欠伸をしつつ、青年の視線は空いていたもう左手の手首に巻かれた腕時計へと向いた。
時刻は夕方の十七時。定刻通りだと青年の虚ろな瞳はデジタルの盤面に映る――青年は黒髪短髪、整った顔立ちは非常に落ち着いていて、起きたてだからかどこかぼうっとしている。
背は高く百八十センチは過ぎた背丈にすらっとした細身の身体。
動きやすい白いシャツと黒色のチノパン、脚には薄汚れたスニーカーをはいてこうして見る限りでは体育会系の装いだろう。
今、何か夢を見ていた気がする――青年はふとそんなことを考える。
あの頃の自分は毎日が楽しかったし、心身ともに充実していた。しかし、今の自分は……そう考えたところで、青年は小さく溜息を吐く。考えても無駄なことだと思考を働かせることを諦めたのだ。
「……」
停車駅が近づき減速し始めた車内にはモーター音が響き、ふと青年は視線を窓の外へと向ける。
すっかり薄暗くなった空が見え、見慣れたようでそうでもない街並みが見え、車内の光に反射して窓には青年の顔が映る……晴れて新天地に来たと言うのに随分とやる気のない顔だと、我ながら笑いたくなる。
ふと青年は何かを思い出したかのように窓から顔を背けると、隣の席に置いたスポーツバッグを掴んでぐいと引き寄せると、その中から手帳サイズほどの薄い冊子を取り出すと、無表情で表紙をめくってみる。
冊子の中では表紙だけは横向きに使われ、ページの半分を青年の顔写真が占めている。
どこかやる気のない、ぼんやりとした顔写真の横には「青戸 駿」と書かれた青年の名前と生年月日――年齢に換算すると今年で二十八歳になることが記されている。
顔写真の右下には複製や偽造が出来ないようにとホログラムの認印が押してあって、下には「東部外務省」と発行元が書いてある。
言うなればこの冊子はパスポート……この国に外務省は二つあり、そのうちの一つで発行されたものというのも彼は“東部”の人間だから。
そしてこれから降り立とうとしているのは“西部”――同じ国内でも近くて遠い、一生縁がないと思っていたところだ。
青年――青戸は虚ろな瞳でパスポートに貼られた自分の顔写真を見ていたが、やがてぱらりとページを捲ると未記入の渡航記録ページになる。
そしてそこには一枚の写真が挟まっていて――今から五年前に弟と撮った写真だと、青戸は数分前に見ていた夢を思い出す。
同じ青色のユニフォームを着ている二人の胸には国の代表であることを示すエンブレムが光る……弟がプロに入って二年、代表選手に青戸兄弟の名を連ねるまでにそう時間は掛からなかった。
どちらともなく肩を組んで写真に写る青戸とその弟、集は眩しい笑顔を輝かせていて、弟にとっては二つ目の夢が叶った瞬間でもあった。
あれから五年――兄もまた、ある目的のために動き出そうとしていた。
「間もなく西部中央ターミナルに到着します。お降りの際は忘れ物をなされませんように、ご注意くださいませ。間もなく――」
ぼうっとしていた青戸は、車内に響くアナウンスと機械的な停車音が耳に届いてはっと我に返る。
完全にリニアモーターカーが停車したことを確認すると、ゆっくりと立ち上がって隣に置いておいた黒い薄手のコートに手を掛けた。
「……さてと」
青戸はパスポートを畳むとコートのポケットへと突っ込み、そのままコートを引っ掛けるようにして肩に羽織る。
元々並以上の背丈と風貌を持っていたのでこうして立ち上がると独特の威圧感があるが、当の本人はそれには気づかない。
仮にそう言ったオーラを持っていたとしても過去形に過ぎないと、青戸は今の自分の立ち位置を自分なりに理解しているつもりだ。
スポーツバッグを肩に掛けて車両からホームへと踏みしめたとき、冷たい風が頬を打つ――東部地方、生まれ育った故郷とは違う風だと、青戸は心の隅で僅かな寂しさを覚える。
作品名:Lost Universe 01 作家名:ねるねるねるね